新着情報 — 最新の入荷情報はカタログをご確認ください。 商品を見る →
※画像はイメージです。「三日月宗近」「へし切長谷部」「鬼丸国綱」「薬研藤四郎」。名刀の名は、刀工の名前の前に不思議な言葉が付いていることが多い。この前置きにあたる部分を「号(ごう)」と呼ぶ。号は刀身に刻まれた文字ではなく、姿・持ち主・逸話などから後世に付いた通称であり、その由来をたどると、名刀がどのように語り継がれてきたかが見えてくる。
刀の茎(なかご)には、多くの場合、刀工が自分の名や製作地を切りつける。これが「銘」であり、作者を示す一次的な記録にあたる。
これに対して号は、刀工が付けたものではない。所有者が付けた呼び名、刀にまつわる逸話、姿や刃文の見立てなど、伝来の途中で自然に定着した通称である。号が付いた刀は、それだけ多くの人の目にふれ、語られてきた刀だといえる。
江戸時代には、徳川吉宗の命を受けた本阿弥光忠が享保4年(1719年)に名刀の目録「享保名物帳」を編纂している。号を持つ名物が体系的に記録された事例で、詳しくは享保名物帳の編纂にまとめている。
代表的な号を眺めると、由来はおおよそ次の型に分けられる。
以下、それぞれの由来を順に見ていく。なお号の由来は、史料で確かめられるものと、伝承にとどまるものが混在する。「〜と伝わる」「〜とされる」という言い回しが多くなるのは、そのためである。
三日月宗近の号は、刀身に三日月形の打除け(うちのけ)が数多く見られることによるとされる。打除けとは刃文の一種で、刃縁に沿って三日月のような形が現れる。物語ではなく、刀そのものの見どころから名が付いた、いわば実見に基づく号である。
作者は平安時代の三条宗近で、現在は国宝として東京国立博物館に所蔵されている。作者については三条宗近の解説、この刀自体は三日月宗近の解説を参照してほしい。
もっとも数が多いのが、逸話に基づく号である。
童子切安綱は、源頼光が丹波の大江山に住む鬼・酒呑童子の首をこの太刀で斬り落としたという伝承にちなむ。号そのものが物語の一場面を指している。詳細は童子切安綱の解説にある。
へし切長谷部は、「圧切」とも書く。『黒田家御重宝故実』には、織田信長が茶坊主の観内に腹を立て、逃げ込んだ膳棚の下へこの刀を差し入れて圧し切ったのが名の由来だと記される。信長からは天正3年(1575年)に黒田孝高へ与えられたと『黒田家譜』が伝え、現在は福岡市博物館に所蔵される国宝である。作者は長谷部国重である。
鬼丸国綱は、北条時政にまつわる話で知られる。『太平記』によれば、時政は夢に現れる小鬼に悩まされていた。ある夜、夢に国綱の太刀の精を名乗る翁が現れ、錆を落とせば鬼を退治すると告げる。時政が言われた通りに手入れをして立て掛けておくと、太刀が倒れて火鉢の台にあった銀の小さな鬼の首を切り落とし、以後、夢に鬼は現れなくなったという。この一件から鬼丸の号が付いたとされる。詳しくは鬼丸国綱の解説を参照されたい。
数珠丸恒次は、日蓮が刀身の美しさにひかれ、柄に数珠を巻いて「破邪顕正の太刀」として佩いたことから、この号が付いたとされる。もとは身延山に入った日蓮に信者が護身用として贈った守り刀だったという。刀が人物や信仰と結び付くことで号が生まれた例で、数珠丸恒次の解説も合わせて読むと理解が深まる。
薬研藤四郎は、粟田口吉光の作と伝わる短刀である。明応2年(1493年)、畠山政長が河内で敗れて切腹しようとしたところ、刀が腹に立たなかったため投げ捨てると、そばにあった薬研(薬をすりつぶす道具)を貫いた。この話が号の由来とされる。
この短刀は足利将軍家、松永久秀、織田信長へと渡ったとされるが、その後の消息ははっきりしない。本能寺の変で焼失したという説もあり、現在は所在不明とされる。号の由来譚も、伝来の記録も、すべてが確定しているわけではない点は心にとめておきたい。
号の由来を読むときは、次の三点を意識するとよい。
号のある刀は、逸話が先に立って語られやすい。だが実物では、逸話の外側にある刀そのものの出来を見ることが、名刀と向き合う近道である。
出品中の刀剣は刀剣一覧から閲覧できる。