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※画像はイメージです。福岡市博物館には、国宝の刀剣と、名槍として名高い日本号が所蔵されている。これらは偶然集まったものではなく、筑前五十二万石を治めた黒田家が、戦国から江戸にかけて受け継いできた伝来の延長線上にある。黒田家の刀剣は、信長・秀吉・北条家・徳川家といった時代の主役たちの手を経て筑前に集まった。本稿では、黒田家の名刀がどのような経路で伝わったのかを、人物のつながりから整理する。
黒田家に伝来した刀剣として、まず挙がるのは次の四つである。
それぞれが異なる人物から黒田家へ入っている点に、この家の立ち位置がよく表れている。
へし切長谷部は、織田信長の苛烈な逸話で知られる。膳棚の下に隠れた茶坊主を、刀を押し当てて棚ごと切った、という話が号の由来とされる。この刀がのちに黒田官兵衛に与えられたと伝わり、信長が官兵衛を重く見ていたことを示す例として語られてきた。
信長の愛刀については、次の記事でも触れている。織田家の名刀が各家へ分かれていった流れを知ると、黒田家への伝来の意味が見えやすい。
日光一文字は、福岡一文字派の代表作とされる太刀である。もとは小田原の北条家に伝わり、天正十八年の小田原征伐の際、和睦に尽力した黒田如水への謝礼として、北条氏直から贈られたと伝えられる。以後、筑前黒田家の家宝として伝来した。
この来歴は、戦の終わり方と刀の動きが重なる好例である。敗れた側の家宝が、仲介に動いた人物の手に渡るという流れは、刀が権威の象徴であると同時に、謝意を表す贈答品でもあったことを示している。
日本号は、黒田家の家臣・母里太兵衛が酒宴の賭けで勝ち取った槍として、黒田節の逸話で広く知られる。皇室に由来する格式を持ちながら、庶民に愛される物語を併せ持つ点で、天下三名槍の中でも特異な存在である。刀ではなく槍だが、黒田家の武具文化を語るうえでは欠かせない。
黒田家は、受け取るだけでなく、刀を贈る側にも立った。博多藤四郎は、粟田口吉光の短刀で、福岡藩主の黒田家から小倉藩主の小笠原家へ贈られて伝わったとされる。吉光の確かな在銘作が九州に伝わった例として、研究上も注目される。
逆に、将軍家から黒田家へ下賜された刀もある。志津兼氏の作と極められた稲葉志津は、稲葉家から徳川家康、浅野幸長を経て、将軍家から筑前福岡藩主の黒田家に下賜されて江戸時代を通じて伝わったと伝えられる。一方、郷義弘の作とされる五月雨江は、黒田長政から徳川秀忠に献上され、のち尾張徳川家に伝わった。
刀の動きを整理すると、黒田家には三つの流れがあったことが分かる。
どの流れも、刀が武家社会の人間関係を結ぶ媒体だったことを物語る。
黒田家の刀剣を語るとき、筑前という土地の刀工にも触れておきたい。南北朝期の筑前には、相州伝の流れをくむ左文字が活躍した。宗三左文字が信長・秀吉・家康と伝わったように、筑前の名工の作は天下人にも重んじられた。
名刀の価値は、姿や地刃だけでなく、誰から誰へ渡ったかという伝来にも宿る。黒田家の例は、一つの家が時代の変わり目ごとに刀を受け取り、守り伝えてきたことが、そのまま日本史の縮図になることを教えてくれる。
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