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※画像はイメージです。江戸時代、日本各地には数百とも言われる剣術流派が存在した。同じ日本刀という得物を用いながらも、流派ごとに重んじる構え、間合い、そして刀そのものへの向き合い方には少なからぬ違いがあった。本稿では、剣術流派と日本刀の関係を、代表的な流派の特徴と稽古体系の観点から見ていく。
剣術流派とは、剣による戦闘技術を体系化し、師から弟子へと相伝していく武術の系統である。戦国期には実戦での生死を分ける技術として発展したが、江戸期に入り太平の世が長く続くと、剣術は実戦の技であると同時に、精神修養や人格陶冶の手段としての性格を強めていった。各流派は独自の型(形)を伝え、目録・免許・皆伝といった段階的な修行課程を設けて、技術と心得を体系的に継承する仕組みを整えていた。
江戸期を通じて確立した流派の系統は多岐にわたり、代表的なものだけでも一刀流、新陰流、神道無念流、鏡新明智流、示現流、天然理心流、二天一流などが挙げられる。これらの流派は単なる技術体系の違いにとどまらず、稽古の方法や重んじる得物の扱いにおいても独自の色を持っていた。
剣術流派の歴史を語るうえで欠かせないのが、竹刀と防具を用いた稽古法の確立である。江戸中期、直心影流の長沼四郎左衛門は、面・小手などの防具と竹刀を工夫し、互いに実際に打ち合う稽古法を発展させたと伝えられる。同時期、一刀流の一派である中西派一刀流の中西忠蔵も同様の稽古法を整え、竹刀による試合稽古(打込み稽古)を積極的に取り入れた。
この革新は剣術のあり方を大きく変えた。それまでの剣術修行は、木刀を用いた形稽古が中心で、実際に打ち合うことは危険を伴うため限定的だった。しかし竹刀と防具の登場により、安全に近い距離で実戦に近い打ち合いを重ねることが可能になり、他流試合も盛んに行われるようになる。この稽古体系は、後の剣道の基盤ともなった。
幕末に江戸で隆盛を極めた道場のうち、次の三道場は「江戸三大道場」としてとりわけ知られている。
流派によって、日本刀そのものへの向き合い方や稽古で用いる木刀・竹刀の性格にも違いが見られた。薩摩に伝わる示現流は、初太刀に全力を込める一撃必殺の思想を特徴とし、「二の太刀は要らぬ」という言葉に象徴されるように、木刀で立木を打ち込み続ける稽古によって圧倒的な打撃力を養うことを重視したと伝えられる。示現流から派生した薬丸自顕流も、薩摩の下級武士層に広く浸透し、実戦志向の激しい太刀筋で知られていた。
近藤勇や土方歳三が学んだ天然理心流は、道場剣術というより野試合や実戦を想定した荒々しい気風を伝統とし、他流に比べて太く重い木刀を用いる稽古が伝えられている流派として知られる。こうした流派の気風は、幕末の動乱期に実際に刀を振るう場面が増えるなかで、改めて注目されるようになったと考えられる。
一方、剣豪・宮本武蔵が開いたとされる二天一流は、太刀と脇差を同時に用いる二刀の技法を特色とした。長短二振りの刀を同時に操るこの技法は、片手での操作に適した刀の重量配分や柄の握りを必要とし、他の一刀流系の流派とは異なる刀への向き合い方を要求したと考えられている。また、徳川将軍家の指南役を務めた柳生新陰流は、「活人剣」の思想のもと、殺傷よりも理合と精神性を重んじる稽古を特徴とし、標準的な長さの打刀を用いる形稽古を中心に据えていた。柳生新陰流の源流にあたる新陰流は、戦国期の兵法家・上泉信綱が創始し、その技法が柳生家に伝えられて江戸幕府の指南役という立場を得たとされる系譜を持ち、剣術流派が武家社会の秩序とも深く結びついていたことを示す一例といえる。
実戦に用いる真剣と、日々の稽古に用いる木刀・竹刀とでは、求められる性質が異なる。稽古用具の違いにも、各流派の個性は色濃く表れていた。
このように、剣術流派の違いは単なる型の違いにとどまらず、稽古で用いる得物の性質や、実戦刀への向き合い方そのものにも反映されていたといえる。
明治期の廃刀令や武術禁止の風潮のなかで多くの流派が衰退したが、一部の流派は今日まで形を変えながら継承されている。竹刀と防具による稽古体系は近代剣道の基盤となり、学校体育やスポーツとしての剣道へと発展した。一方で、古流剣術の形を今に伝える流派も各地に残り、真剣や模擬刀を用いた形稽古を通じて、江戸期以来の技術と精神性を後世に伝え続けている。
日本刀という一つの得物をめぐって、これほど多様な流派と稽古体系が育まれてきたことは、日本刀が単なる武器を超えて、精神文化の担い手として長く重んじられてきたことの証だといえるだろう。
日本刀×日本文化体験
観光スポットと刀剣文化をつなぐ多言語展開。