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※画像はイメージです。太刀(たち)が主力だった平安〜鎌倉時代から、打刀(うちがたな)が主役に取って代わるのは室町時代中期(15世紀)以降のことだ。この転換を促したのは、戦闘様式の根本的な変化だった。詳しい社会背景は「室町の刀剣転換——太刀から打刀へ、戦乱と美の時代」も参照されたい。
鎌倉期の合戦は騎馬武者が主体で、馬上から太刀を振り下ろす戦法が中心だった。しかし南北朝時代(14世紀)から戦国時代(15〜16世紀)にかけて、大規模な歩兵集団(徒武者・足軽)による地上戦が主体になっていく。
歩兵が腰から吊るした太刀を馬上と同じように使うのは非効率だった。そこで「刃を上にして腰の帯に差す」形式——打刀の形式が普及した。刃を上にして差すことで「抜刀と同時に斬る」(居合の原型)が可能になり、近距離での素早い抜刀が武士の基本技術となった。
戦国時代(16世紀)の打刀は、現代人がイメージする「日本刀」とは若干異なる外観を持っていた。
戦場では刀身の折れや欠け(刃欠け)が起こりやすいため、耐久性を重視した鍛錬が求められた。
相州伝系の名工: 新藤五国光・廣光・正宗の系譜は戦国武将に人気があり、豪壮な打刀を多く残した。
美濃伝(みのでん)・関の刀工: 岐阜の関を中心とした美濃伝は実用的な打刀の大量生産で知られ、「関の孫六」は後世まで名声を保った。
虎徹(こてつ): 長曽祢虎徹(慶長10年=1605年生・延宝6年=1678年没)は江戸時代前期〜中期の名工で、明暦2年(1656年)に甲冑師から刀工に転業した。戦国期とは直接関係なく、江戸初期から中期にかけての太平の時代に活躍し、その打刀は江戸新刀の頂点として評価される。
関ヶ原の戦い(1600年)前後、つまり戦国末期〜江戸初期に作られた打刀は「慶長新刀(けいちょうしんとう)」と呼ばれる一つの様式を形成した。
この時期を境に、日本刀は「戦うための道具」から「美術的価値も重視する工芸品」への転換を始める。
平和な江戸時代が続く中で(1600〜1868年)、打刀は実戦から遠ざかり、「武士の礼装」「身分の象徴」としての意味が前面に出るようになった。
この時代、刀工は実用性より美術性を競うようになり、「新々刀(しんしんとう)」時代(18世紀末〜19世紀)の刀は美術品としての完成度が極めて高い。
幕末(1850〜60年代)、外圧と内乱で再び実戦が意識されるようになると、「古刀(ことう)回帰」「実戦的な姿への回帰」を志向する刀工が現れた。
水心子正秀(すいしんしまさひで)・源清麿(みなもとのきよまろ)・固山宗次(かたやまむねつぐ)などの幕末刀工は、江戸中期の「美術刀」様式から脱して、鎌倉・南北朝期の古刀を研究し、「実戦に使える姿」を取り戻そうとした。
打刀の形状は、それが作られた時代の日本社会を鏡のように反映している。戦国の実戦が求めた豪壮な姿、江戸の平和が求めた洗練された美術、幕末の動乱が求めた古刀回帰——打刀を通じて日本の歴史が見えてくる。刃長・反り・地鉄・刃紋の変遷を辿ることは、そのまま武士の時代の価値観の変遷を辿ることでもある。時代ごとの打刀・拵を実際に見比べたい方は、作品一覧からオンラインでご覧いただける。