※画像はイメージです。江戸時代前期1613年-1675年(延宝3年9月29日没)
柳生宗冬
Yagyū Munefuyu
柳生新陰流継承者——将軍家綱・綱吉の剣術指南役
解説
柳生宗冬とは
柳生宗冬(やぎゅう むねふゆ)は、江戸時代前期の剣術家・大名である。大和国柳生藩初代藩主にして将軍家兵法指南役を務めた剣豪・柳生宗矩の三男として生まれた。兄に柳生新陰流の高弟として知られる柳生十兵衛三厳(じゅうべえ みつよし)がいる。
家督相続の経緯
慶安3年(1650年)、兄・三厳が急死したため、宗冬がその遺領を継いで柳生家当主となった。父・宗矩の死(1646年)から家督は一度三厳に渡っていたが、三厳に嗣子がなかったことから宗冬に家が引き継がれる形となった。
将軍家兵法指南役として
宗冬は柳生新陰流を継承し、将軍家の剣術指南役を務めた。明暦2年(1656年)には四代将軍・徳川家綱に新陰流を伝授する将軍家兵法指南役に任じられ、寛文元年(1661年)には後の五代将軍・徳川綱吉からも入門の誓紙を受けたと伝えられる。
大名への復帰
宗冬の代には柳生家は一時的に石高が1万石を割り込み、大名の地位を離れていたとされるが、寛文8年(1668年)、大和国山辺郡において1700石の加増を受けて総石高が1万石に達し、父・宗矩の死から22年を経て柳生家は大名に復帰した。
後世への評価
柳生宗冬は、父・宗矩、兄・三厳とともに柳生新陰流を将軍家の兵法として江戸時代を通じて存続させた中心人物の一人として位置づけられる。延宝3年(1675年)9月29日に没し、家督は子の柳生俊方(後の宗在)が継いだ。墓所は奈良県奈良市柳生下町の芳徳寺にある。