※画像はイメージです。松平信綱
Matsudaira Nobutsuna
「知恵伊豆」と称された幕政の名老中——島原の乱を鎮め、川越藩の礎を築く
解説
生涯と出自
松平信綱(1596-1662)は、徳川家康の家臣・大河内久綱の長男として武蔵国に生まれた。のちに長沢松平家の松平正綱の養子となり、松平姓を称している。幼少より徳川家光に近侍し、家光の将軍就任とともに幕政の中枢へ進んだ。官位は従五位下伊豆守にはじまり、のち従四位下・侍従に至る。「松平伊豆守信綱」の呼称で広く知られる。
老中としての幕政
寛永10年(1633年)5月、老中に任じられ、武蔵忍藩3万石を領した。寛永15年(1638年)11月には老中首座となり、三代将軍家光・四代将軍家綱の二代にわたって幕政を主導した。その明敏さから「知恵伊豆」(伊豆守の知恵者の意)と称され、江戸初期の幕府機構を確立した実務官僚の代表格とされる。
島原の乱
寛永14年(1637年)、島原・天草でキリシタン農民らの大規模な蜂起が起こった(島原の乱)。幕府はまず板倉重昌を上使として派遣したが、重昌は翌寛永15年正月の総攻撃で戦死する。これを受けて信綱が総大将として現地に赴いた。信綱は力攻めを避けて原城を包囲し、兵糧攻めによって籠城勢を消耗させたうえで総攻撃を敢行、同年2月に原城を落とした。
川越藩の経営
乱鎮圧の勲功により、寛永16年(1639年)正月、3万石加増の6万石をもって川越藩に移封された。信綱は川越城下の町割を整備し、江戸と川越を結ぶ新河岸川の舟運や川越街道を改修するなど藩の経済基盤を築いた。また野火止用水の開削を手がけ、武蔵野台地の新田開発を進めたことでも知られる。今日の川越の都市の骨格は、この時期の信綱の施策に多くを負っている。
刀剣にまつわる逸話と後世の評価
小姓時代の逸話として、将軍秀忠の刀を抱えたまま廊下で居眠りしていたところ、秀忠が起こさぬよう刀を抜き取ろうとすると、信綱はたちまち目を覚まして曲者と見て組みかかった、という話が伝わる〔逸話集に載るもので史実性は確かめられていない〕。また島原攻めに際しては、将軍家兵法指南役・柳生宗矩の助言を容れて兵糧攻めの方針を固めたとも伝えられる。武功よりも知略と行政手腕によって幕府を支えた「吏僚型大名」の典型として、今日も評価が高い。