※画像はイメージです。吉良義央
Kira Yoshinaka
赤穂事件のもう一人の当事者——朝幕の儀礼を差配した高家肝煎「吉良上野介」
解説
出自と高家としての職務
吉良義央(1641-1703)は、江戸幕府の高家旗本・吉良義冬の子として生まれた。名の読みは「よしひさ」とされるが、通俗には「よしなか」とも読まれる。通称は上野介(こうずけのすけ)。吉良氏は足利氏の一門に連なる名門で、幕府の「高家」として朝廷との儀礼・典礼を司る家柄であった。義央は高家肝煎(高家の筆頭格)を務め、勅使の応接や幕府の儀式典礼の指南にあたり、朝廷と幕府をつなぐ実務を長年担った。官位は従四位上・左近衛権少将に至っている。
松の廊下の刃傷
元禄14年(1701年)3月14日、江戸城本丸の松の廊下で、勅使饗応役を命じられていた赤穂藩主・浅野長矩(内匠頭)が突如義央に斬りつけ、義央は負傷した。五代将軍徳川綱吉は長矩に即日切腹を命じ、赤穂藩は改易となったが、義央は咎めを受けなかった。この裁定が「片手落ち」と受け取られたことが、のちの事件の遠因となる。刃傷の動機については、饗応の指南をめぐる行き違い、遺恨、長矩の乱心など諸説あり、確たる定説はない。
討ち入りと最期
元禄15年12月14日(西暦1703年1月30日)深夜、大石内蔵助良雄を筆頭とする赤穂浪士四十七士が本所の吉良邸に討ち入った。義央は炭小屋に潜んでいたところを発見され、脇差を抜いて抵抗したが討ち取られた。その首級は泉岳寺の浅野長矩の墓前に供えられたのち、吉良家に返された。浪士たちは翌元禄16年2月、切腹を命じられた。
領地における評価と後世像
一方、義央の所領であった三河国吉良荘(現在の愛知県西尾市)では、黄金堤の築堤や新田開発に尽くした領主とする伝承があり、地元では名君として語られてきたが、これらの事績を当時の記録で裏づけることはできないとされる。人形浄瑠璃・歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』をはじめとする「忠臣蔵」物では一貫して敵役として描かれ続けたため、その人物像は史実と創作の間で大きく揺れている。赤穂浪士の討ち入りは日本三大仇討ちの一つとして刀剣史・武家文化史においても繰り返し語られる題材である。