渡辺数馬
Watanabe Kazuma
「鍵屋の辻の決闘」で弟の仇を討った、日本三大仇討ちの当事者
解説
渡辺数馬(わたなべ かずま、慶長13年〈1608年〉?-寛永19年〈1643年〉?)は、江戸時代前期の武士。弟の仇討ちのため義兄・荒木又右衛門に助太刀を求めた「鍵屋の辻の決闘」の当事者として知られる。生没年は史料により異同があり、確定的ではない。
弟の横死
数馬は岡山藩主・池田忠雄に仕えた藩士で、弟の渡辺源太夫は忠雄の小姓であった。寛永7年(1630年)7月21日、源太夫は同僚の河合又五郎から横恋慕され関係を迫られたが拒絶したところ、逆上した又五郎に殺害された。
荒木又右衛門への助太刀依頼
剣術に長じていなかった数馬は、姉婿で柳生新陰流の遣い手として知られた荒木又右衛門に助太刀を依頼する。又五郎は事件後に江戸へ逃れ旗本・安藤家の庇護を受けるなどしたため追跡は難航したが、又五郎が伊賀路を通って再び江戸へ向かうとの情報を得た数馬と又右衛門らは、伊賀上野・鍵屋の辻で待ち伏せた。
鍵屋の辻の決闘
寛永11年11月7日(1634年12月26日)、数馬・又右衛門ら4人と、又五郎ら11人が鍵屋の辻で激突した。約6時間に及んだとされるこの戦闘で、又五郎を含む河合方4人が討たれ、渡辺方は1人が死亡した。曾我兄弟の仇討ち、赤穂浪士の討ち入りと並ぶ「日本三大仇討ち」の一つに数えられている。
決闘後と刀剣との関わり
決闘の翌年、数馬は又右衛門とともに戸波流剣術の開祖・戸波親清に入門したと伝わる。事件後は藤堂家に一時預けられ、寛永15年(1638年)に伊賀を離れて鳥取藩に引き取られたとされる。
後世の評価
鍵屋の辻の決闘は「36人斬り」の俗説とともに歌舞伎や講談、映画などで繰り返し取り上げられ、数馬自身は仇討ちを果たした忠義の武士として長く語り継がれている。一方で、実際の決闘の主役は助太刀の又右衛門であったとする見方も強く、数馬個人の武名としての実像は史料上必ずしも明確ではない。