※画像はイメージです。清水宗治
Shimizu Muneharu
備中高松城の水攻めに耐え、城兵の助命と引き換えに湖上で自刃した毛利家臣
解説
清水宗治(しみず むねはる)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将で、備中高松城主。毛利輝元に仕え、小早川隆景の配下として働いた。天文6年(1537年)、備中国賀陽郡清水村(現在の岡山県総社市井手)に生まれたとされ、天正10年6月4日(1582年6月23日)に46歳で没した。幼名は才太郎、別名は長左衛門尉、戒名は清鏡宗心。大正13年(1924年)に従四位を贈られている。
生涯
備中清水氏の出身で、父は清水宗則、兄に清水宗知(月清入道)、弟に難波宗忠(伝兵衛)がいる。妻は三村氏の有力配下・石川久智の娘(石川久孝の娘とも記される)で、三村氏の家臣を経て、石川久式、毛利輝元に仕えたとされる。備中清水城の城主を務め、のちに備中高松城主となった。高松城主となった経緯には諸説あり、一般には天正の備中兵乱で、三村氏の重臣でありながら毛利氏に加担して地位を得たとされる。毛利氏の家臣となってからは小早川隆景の配下として中国地方の平定に従軍し、毛利首脳陣の信頼を得た。
備中高松城の戦い
天正10年(1582年)4月、織田信長の家臣・羽柴秀吉が中国攻めを行うと、宗治は高松城に籠城して抗戦した。秀吉は降伏すれば備中・備後の2か国を与えるという条件を示したが、宗治は応じず、信長からの誓詞をそのまま主君の輝元に届けて忠義を示したと伝わる。黒田官兵衛が策したとされる水攻めで城は落城寸前に追い込まれたが、輝元が吉川元春・小早川隆景とともに救援に赴いたため、戦線は膠着した。
最期
水攻めの最中の6月2日に京都で本能寺の変が起こり、信長が死去した。秀吉はこれを伏せたまま、宗治の命を条件に城兵の助命を求める講和を呼びかけた。毛利方は安国寺恵瓊を使者として交渉したが、秀吉側は5か国の割譲と宗治の自刃を求め、交渉は成立しなかった。宗治は家臣の助命と主家への義理のため、自身と兄の宗知、弟の宗忠、援将の末近信賀の4名の命と引き換える旨の嘆願書を書き、恵瓊に託したとされる。6月4日、宗治は信長の死を知らないまま、宗知・宗忠・末近信賀らとともに水上の舟で切腹した。辞世は「浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して」である。
子孫と後世評価
子の景治は宗治の死後、小早川隆景、次いで毛利輝元に仕え、毛利家の寄組となり、のち周防国に移り住んだ。子孫は長く山口県光市に居住し、幕末に切腹した12代目の親知は、宗治とともに正義霊社で祀られている。首塚は備中高松城跡(岡山市北区高松)、墓は清鏡寺(光市)にあるとされる。小説、テレビドラマ(NHK大河ドラマを含む)、漫画、ゲーム(『信長の野望』シリーズなど)に数多く登場する。