※画像はイメージです。母里友信
Mori Tomonobu (Bori Tomonobu)
黒田八虎の一人——酒を飲み干して名槍「日本号」を得た黒田家の勇将
解説
母里友信(もり/ぼり とものぶ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将で、黒田孝高(如水)、のちその子・黒田長政に仕えた。弘治2年(1556年)に生まれ、慶長20年6月6日(1615年7月1日)に60歳で没した。通称は太兵衛(多兵衛)、幼名は万助、官位は但馬守。黒田家中での正式な読みは「ぼり」とされ、「もり」の読みから幕府文書などで「毛利」と誤記され、一時期その姓を名乗ったこともある。
生涯
永禄12年(1569年)に黒田孝高へ出仕した。青山・土器山の戦いで母里家の一族の多くが戦死して家が絶えたのち、孝高から母里の姓を与えられたという。天正元年(1573年)の印南野合戦で初陣を飾り、以後も先鋒を務めた。
主要な事績
天正6年(1578年)、荒木村重に捕らえられた孝高の安否を確かめるため、有岡城に潜入した。天正15年(1587年)の九州征伐では、豊前の宇留津城攻めで一番乗りの戦功を挙げた。文禄・慶長の役には長政に従って従軍している。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの前後には、豊後で蜂起した大友義統を降伏させた。慶長11年(1606年)には後藤基次の旧領・益富城の城主となり、長政から「但馬守」を与えられた。江戸城の普請では天守台石垣を担当し、慶長13年(1608年)には桐山信行とともに長崎街道の冷水峠の整備を行った。また、関ヶ原の戦いの後に長政が筑前へ移封された際には、筑前の鷹取城で1万8,000石を拝領している(うち2,000石は子の友生が拝領)。生涯に挙げた首級は76とされ、家中で一番だったと伝えられる。
日本号の逸話
文禄・慶長の役の休戦中、友信は長政の使者として、京都の伏見城に滞在していた福島正則のもとを訪れた。正則は友信に酒を勧めたが、友信は使者という立場から一度は固辞した。すると正則は「黒田武士は酒に弱い」といった趣旨の挑発をした。友信はこれを受けて、大杯に注がれた酒を一気に飲み干し、褒美として、正則が豊臣秀吉から拝領していた名槍「日本号」を所望した。正則は「武士に二言は無い」という言葉を受けて、日本号を差し出したという。
刀剣(槍)との関わり
日本号は秀吉から正則に与えられた槍である。その後の来歴について、後藤基次の手を経て母里家に返されたとする説があるが、これは講談の内容でありフィクションとされる。母里家では大正時代まで家宝として伝わり、のちに黒田家に献上されるなど所有者が転々とした。現在は福岡市に寄贈され、福岡市博物館に現物が、広島城にレプリカが展示されている。
後世評価
槍術に優れた剛力の勇将として知られ、黒田二十四騎の中でも特に重用された「黒田八虎」の一人とされる。日本号の逸話は「黒田節」の題材として広く知られ、博多人形の題材としても多く造られている。博多駅前の銅像は昭和45年(1970年)に設置された。墓所は福岡県嘉麻市大隈の麟翁寺にある。大河ドラマでは、1973年の『国盗り物語』や2014年の『軍師官兵衛』に登場する。
所持した刀剣
- 日本号(槍)