※画像はイメージです。太田資正
Ōta Sukemasa
軍用犬を使って城間の連絡を保った岩付城主——太田道灌の裔、号は三楽斎道誉
解説
太田資正(おおた すけまさ、大永2年〈1522年〉-天正19年〈1591年〉)は、戦国時代の武将である。江戸城を築いたことで知られる太田道灌の子孫にあたり、武蔵国岩付城を拠点として後北条氏と長く争った。
出自と岩付城の相続
扇谷上杉氏の家臣・太田資頼の次男として生まれた。天文16年(1547年)、兄の死後に実力をもって岩付城の家督を継承している。惣領の座を順当に受け継いだのではなく、自らの力で奪い取ったかたちであり、その後の生涯を貫く独立不羈の姿勢がすでに現れている。
後北条氏との抗争
当初は北条氏康に降っていたが、永禄3年(1560年)の上杉謙信による関東侵攻に呼応し、北条氏から明確に離反して敵対する立場へと転じた。以後、関東における反北条勢力の中核の一人として、長期にわたる抗争を続けることになる。
軍用犬の逸話
資正の名を特異なものにしているのが、訓練した犬を通信に用いたという逸話である。『甲陽軍鑑』によれば、資正は書状を入れた竹筒を犬の首に結びつけて城外へ放ち、離れた城との間で連絡を取り合ったとされる。この「三楽犬の入替え」と呼ばれる手法によって包囲下でも情報伝達を維持し、北条勢の攻撃を退けたと伝えられる。戦国期の情報戦を語るうえでしばしば引かれる事例である。
岩付城の喪失と出家
永禄7年(1564年)、資正は子の氏資に岩付城を占拠され、氏資が北条方へ降伏したことで城を追われた。実子による離反という痛烈なかたちで本拠を失ったことになる。翌永禄8年(1565年)、岩付城の奪還を試みて失敗すると、資正は出家して「三楽斎道誉(さんらくさい どうよ)」と号した。
佐竹氏への仕官と晩年
その後は下野の宇都宮氏を経て、常陸国の佐竹義重に仕え、片野城の城主となった。本拠を失ってなお反北条の立場を貫き、他家に身を寄せながら戦い続けた点に、資正の一貫性がある。天正19年(1591年)、片野城において病没した。享年70。後北条氏が小田原征伐によって滅びた翌年のことであった。