※画像はイメージです。前田利常
Maeda Toshitsune
鼻毛大名の逸話で知られる加賀藩2代——百万石を守り抜いた治世の名君
解説
出自と家督相続
前田利常(まえだ としつね、1594-1658)は、文禄2年11月25日(1594年1月16日)、加賀藩祖・前田利家の四男(庶子)として生まれた。母は側室の寿福院(東丸殿)で、利家が朝鮮出兵にともない名護屋城に在陣していた時期に生まれたとされる。幼少期は越中国森山城主・前田長種のもとで養育された。慶長10年(1605年)6月、兄で初代藩主の利長が隠居したことにより、利常は12歳で加賀藩第2代藩主となった。利長は当初、弟の利政を後継に考えていたが、関ヶ原の戦いを境に利常へと方針を改めたとされる。同年、徳川秀忠の娘・珠姫(当時3歳)を正室に迎え、徳川家との結びつきを強めた。
藩政と大坂の陣
利常は治水事業や農政の整備に力を注ぎ、その治世は「政治は一加賀、二土佐」と並び称されるほど高く評価された。慶長19-20年(1614-1615年)の大坂の陣には前田軍を率いて参陣し、2万を超える兵力を動員したと伝わる。
鼻毛大名の逸話
利常は、徳川幕府から警戒されることを避けるため、故意に鼻毛を伸ばして暗愚を装ったという逸話で知られる。家臣に対し「これは加州・能州・越中の三国を守り、お前たちを安泰に暮らさせるための鼻毛じゃぞ」と語ったと伝わり、後世「鼻毛大名」と呼ばれる由来となった。
文化・工芸の奨励
利常は金工師の後藤顕乗・後藤覚乗や蒔絵師の五十嵐道甫といった京都・江戸の一流の工匠を高禄で召し抱え、加賀藩における美術工芸の振興に努めた。隠居後も、若くして家督を継いだ孫・綱紀の後見人として藩政を支え続けた。
後世の評価
利常は、韜晦の逸話と裏腹に堅実な藩政運営を行い、加賀百万石の基盤を安定させた名君として、近世大名研究において高く評価されている。