※画像はイメージです。井伊直孝
Ii Naotaka
彦根藩二代目藩主・大坂の陣で武功を挙げ彦根35万石の礎を固めた赤備えの将
解説
井伊直孝(1590-1659)は、「徳川四天王」の一人・井伊直政の次男(後に嫡男扱い)であり、近江国(現在の滋賀県)彦根藩の二代目藩主である。直政の急逝後、幼くして家督を継ぎ、大坂の陣(1614-1615年)で武功を挙げて藩の地位を固めた。「豪胆にして慎重」と評された名君であり、江戸時代初期の幕政においても重要な役割を果たした。彦根藩の礎を築いた名君として、今日でも彦根市で顕彰されている。
直孝は天正18年(1590年)に井伊直政の次男として生まれた。慶長7年(1602年)に直政が関ヶ原の戦いの傷が元で死去すると、兄・直継が家督を継いだが、直継の凡庸さから直孝が実質的な後継者として育てられた。元和元年(1615年)、大坂の陣の戦功により徳川家康の命で井伊家の家督を継ぎ、彦根藩15万石を継承した。
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、直孝は「赤備え」の軍団を率いて豊臣方の拠点を攻撃し武功を挙げた。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、道明寺の戦いや天王寺の戦いに参加し、豊臣方を追い詰めるのに貢献した。その後の加増を重ね、彦根藩は最終的に30万石(預り地を加え実質35万石)の大藩となった。
その後は幕閣として重きをなし、寛永14年(1637年)の島原の乱に際しては、江戸にあって幕政の中枢から鎮圧策を献じた(幕府軍の総大将は板倉重昌、その戦死後は松平信綱が務めた)。また「招き猫」と豪徳寺の縁起にも直孝の名が登場し、民話・文化の面でも親しまれている。万治2年(1659年)に70歳で逝去した。
日本刀との関わりにおいて、直孝は「赤備え」の将として日本刀と武具の文化的象徴を体現した大名である。父・直政の時代から続く赤備えの甲冑・武具は、彦根藩の誇りとして受け継がれた。彦根城に伝来する刀剣・甲冑類は、今日でも彦根城博物館に多数所蔵されており、国宝・重要文化財に指定されたものも含まれる。直孝自身も名刀を愛好し、徳川将軍家から拝領した刀剣を家宝として大切にしたと伝わる。井伊家の刀剣コレクションは、戦国から江戸へと続く武家文化の精髄として刀剣ファンの憧れの的となっている。
所持した刀剣
- 徳川将軍家より拝領した御下賜刀・井伊直孝が彦根城に遺した家宝の名刀
- 彦根城伝来の国宝・重要文化財の刀剣・赤備えの将が守り伝えた武家の至宝