※画像はイメージです。毛利勝永
Mōri Katsunaga
大坂の陣の名将・真田幸村と並んで豊臣方を支えた猛将で天王寺口の戦いで徳川方を震撼させた武将
解説
毛利勝永(1578-1615)は、豊前国(現在の大分県・福岡県の一部)出身の武将であり、豊臣秀吉に仕えた毛利勝信の嫡男である。大坂の陣(1614-1615年)において真田幸村と並んで豊臣方の将として活躍し、特に慶長20年(1615年)5月7日の天王寺・岡山口の戦いでは、徳川家康の本陣近くまで迫る猛攻を見せ、敵方を震撼させた。豊臣方最後の激闘を戦い抜いた悲劇の名将として後世に語り継がれている。
勝永は天正6年(1578年)に毛利勝信の子として生まれた。幼少より豊臣秀吉に小姓として仕え、朝鮮出兵(文禄・慶長の役)にも従軍した。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍(石田三成方)に組し、敗戦後に父・勝信とともに土佐(現在の高知県)に配流された。土佐では山内一豊の監視下に置かれたが、慶長19年(1614年)に大坂城へ入城し、豊臣秀頼のもとで大坂冬の陣・夏の陣を戦った。
大坂夏の陣最終局面の慶長20年(1615年)5月7日、勝永は天王寺口で徳川方の先鋒部隊と激突。配下の精鋭とともに徳川方の前線を突き崩し、家康の本陣近くまで迫る猛攻を展開した。この奮戦は真田幸村の突撃と並んで「大坂の陣最大の見せ場」として語り継がれている。豊臣家の滅亡とともに、勝永は大坂城内で自刃して38歳の生涯を閉じた。
日本刀との関わりにおいて、勝永は戦場の猛将として日本刀を実戦の道具として最大限に活かした武将である。大坂の陣に集結した浪人衆の中でも勝永は特に武勇に優れた将として知られており、その愛刀は豊臣家への忠義の象徴として語り継がれた。土佐配流中にも武芸の鍛錬を怠らず、大坂城入城時には刀剣とともに覚悟の武装を整えたと伝わる。毛利勝永の愛刀は、戦国末期の実戦と武士道精神を語る上で欠かせない遺産として、刀剣史に名を刻んでいる。
所持した刀剣
- 大坂の陣の実戦刀・勝永が豊臣家への忠義を賭けて天王寺口で振るった愛刀
- 毛利家伝来の武将刀・土佐配流から大坂城まで携え続けた覚悟の刀