※画像はイメージです。馬場信春
Baba Nobuharu
武田四天王・不死身の鬼美濃
解説
馬場信春(1515-1575)は武田信玄に仕えた武田四天王の一人であり、「鬼美濃(おにみの)」の異名で恐れられた猛将である。武田氏の滅亡まで主君への忠節を貫き、最期は武田勝頼の命を守るために殿軍(しんがり)を務めて長篠の戦いで討ち死にした壮絶な生涯は、武士の忠義と武勇の理想像として後世に長く語り継がれた。
信春の生涯で特筆すべきは、その出色の戦歴と不敗の伝説である。武田信玄に仕えて以来70余回の合戦に参加し、一度も傷を負わなかったという伝説は「不死身の鬼美濃」の異名の由来となった。これが史実通りかは別として、信春が常に最前線で戦いながら生き延びた事実は、その武勇と的確な戦術判断の証左である。
信春は特に槍術と馬術に秀でていたが、刀剣への造詣も深かった。武田軍は「甲斐の武者」として全国に恐れられた精鋭であり、信春はその中核を担う将として、武器の整備と兵士の武装に細心の注意を払った。武田氏の膝元・甲斐(山梨)は刀剣の産地としても知られており、甲斐の刀工が打った刀は実戦向きの頑強さで評価された。信春はこうした甲州系の刀剣を好み、配下の将兵の武器管理においても刀剣の質にこだわったと伝えられる。
1575年の長篠の戦いは武田氏の命運を決した歴史的決戦であった。織田・徳川連合軍が導入した鉄砲の集中運用という革新的戦術の前に、武田の騎馬隊は壊滅的な打撃を受けた。信春は主君・勝頼を安全に退却させるため、自ら殿軍を志願した。老将(60歳)にもかかわらず、信春は敵中を突破しながら最後まで戦い、ついに討ち取られた。
「今日限りの命と知れども、戦場を離れること武士の恥」という精神で最期まで戦い抜いた信春の死は、武田家崩壊の始まりを象徴する悲劇的な場面として歴史に刻まれている。その後武田氏は1582年に滅亡するが、信春の忠義と武勇は後世の武士の模範として繰り返し語られた。特に「七年の不敗」「一番槍」などの逸話は講談・浪曲の定番の題材となり、江戸時代を通じて庶民にも親しまれた。
信春の墓所は長野県の長篠近辺に伝わるほか、甲斐の地にも遺跡が残り、地元では今も敬慕の対象となっている。武田四天王の中でも特に「義」の人として評価される馬場信春は、戦国武将の忠義と武勇の極致を示す存在として、日本武士道の歴史に確固たる地位を占めている。
所持した刀剣
- 甲州系の実戦刀
- 馬場家伝来の刀