※画像はイメージです。安土桃山〜江戸時代初期1569頃-没年不詳(1618頃とも)
明石全登
Akashi Teruzumi
大坂の陣を戦い抜いた謎多きキリシタン武将
解説
生涯
明石全登の生年は定かでないが、永禄十二年(一五六九年)頃の生まれと推定される。父・明石行雄の跡を継ぎ、文禄年間には宇喜多家中で大俣城主・家老の地位を得た。慶長四年(一五九九年)の宇喜多騒動後は家宰として宇喜多家中を統率し、最終的に十万石という破格の知行を得るに至った。
キリシタン大名としての信仰
全登は熱烈なキリシタン武将として知られ、宣教師を自らの屋敷に住まわせて保護するほどの篤い信仰心を持っていたと伝わる。「掃部頭(かもんのかみ)」を称し、明石掃部の通称でも呼ばれる。
関ヶ原・大坂の陣における戦歴
慶長五年(一六〇〇年)の関ヶ原の戦いでは石田三成方に与し、伏見城の攻略に加わったのち、本戦では八千の兵を率いて宇喜多軍の先鋒を務めた。小早川秀秋の裏切りによる敗戦に際しては、討ち死にしようとする主君・宇喜多秀家を諫めて退却を進言し、自らは殿軍を務めて主君を落ち延びさせた。慶長十九年(一六一四年)の大坂冬の陣では信仰上の理由から豊臣方として参陣し、翌年の夏の陣では道明寺の戦いで負傷しながらも、天王寺・岡山の戦いでは決死隊を率いて戦った。
その後の消息
大坂落城後の全登の消息は判然とせず、戦死したとする説と密かに落ち延びたとする伝承が並存し、今なお歴史上の謎として語られている。
後世評価
主君への忠義と信仰への献身を貫いた生き様から、大坂の陣を戦った勇将「大坂五人衆」の一人として後世に名を残している。