※画像はイメージです。赤松則村
Akamatsu Norimura
赤松円心・南北朝動乱を生き抜いた播磨の梟雄
解説
赤松則村(1277-1350)、出家後は円心と号した。播磨(現・兵庫県)を地盤とした守護大名の祖であり、南北朝動乱において変幻自在の政治的嗅覚で時代を渡り歩いた稀有な武将である。「円心」の法名は出家後のものであるが、「赤松円心」の名で後世に広く知られている。
則村の最初の歴史的役割は、後醍醐天皇の倒幕運動への参加である。1331年(元弘元年)に始まる元弘の乱では、護良親王の令旨を受けて播磨の苔縄城で挙兵し、当初から倒幕方として戦い、1333年の六波羅探題攻略において足利尊氏とともに重要な役割を果たした。建武政権下では恩賞が佐用荘の安堵にとどまり一旦は不遇をかこったが、のちに足利尊氏に従って播磨守護となり、赤松氏の勢力を拡大させた。
建武の新政が始まると則村は冷遇され、武家の利益を優先する足利尊氏の台頭を支持するようになった。1336年、湊川の戦いにおいて楠木正成が戦死し足利政権が樹立されると、則村はその重要な支持者として室町幕府初期の形成に関与した。
赤松則村と刀剣の関係は、播磨の地における刀剣文化の保護者としての側面から語られる。播磨国は備前と並ぶ刀剣の名産地であり、備前長船派の影響を受けた播磨の刀工たちは則村の庇護のもとで活動していたと伝えられる。特に赤松氏の本拠地周辺では刀工の定住が促進され、実戦に優れた打刀の生産が奨励された。
則村の戦術は正面突破よりも籠城戦と持久戦を得意とした。1333年の赤坂城・千早城の戦いでは楠木正成の籠城戦が有名であるが、則村もまた赤松氏の諸城を巧みに守り抜く能力を発揮した。「敵に塩を送る」ような義侠的精神よりも、実利的な判断で主君を替える梟雄的性格は、南北朝時代の武将の典型的なあり方を示している。
則村の晩年は足利政権への積極的協力によって穏やかなものであったが、その死後、赤松氏は足利将軍を暗殺する(嘉吉の乱、1441年)という衝撃的な事件を起こし、一度は滅亡の危機に瀕することになる。播磨の地で育まれた赤松氏の独立的気風は則村の代に根を張ったものであり、それが子孫の反骨精神の源泉となった。日本刀文化の隆盛期である南北朝時代を生き抜いた戦略家として、赤松則村は地域の刀剣文化の守護者としての歴史的評価を受けている。
所持した刀剣
- 播磨伝来の打刀
- 赤松家伝来の刀