※画像はイメージです。足利直冬
Ashikaga Tadafuyu
南北朝・足利尊氏庶子・九州探題
解説
出生と幼少期
足利直冬(あしかが ただふゆ)は南北朝時代の武将で、室町幕府初代将軍・足利尊氏の庶子である。生年は嘉暦2年(1327年)とする説が有力で、母は越前局と呼ばれた側室とされる。『太平記』によれば尊氏が若年の頃に「忍び通った越前局という出自の分からない女性」との間に生まれたとされ、尊氏は長らくその存在を認知せず、幼少の直冬は鎌倉・東勝寺の喝食(寺院に奉公する稚児)として育てられた。
足利直義の養子
直冬が認知されるきっかけとなったのは、禅僧・玄慧法印の仲介であった。学識ある直冬の才能を見出した玄慧は、尊氏の弟・直義に直冬を紹介した。当時子のなかった直義はこれを養子として引き取り、名の一字を与えて「直冬」と名付けた。こうして直冬は足利将軍家の一族として位置づけられることとなったが、実父・尊氏との関係は終生複雑なものであり続けた。
武将としての台頭と長門探題
南北朝の戦乱の中、直冬は武将として頭角を現し始めた。貞和4年(1348年)の初陣で南朝勢力討伐に功績を立て、やがて長門探題として山陰・山陽八か国の管轄を命じられ西国へ下向することとなった。しかし下向の途中、備後において尊氏の側近・高師直の軍に奇襲を受け、命からがら九州へ逃れた。この事件は尊氏と直義の権力闘争の一端であり、直冬はその狭間で翻弄される存在となった。
観応の擾乱と南朝との協調
観応の擾乱(1349–1352年)において、直冬は実父・尊氏と正面から対立する立場をとった。九州に逃れた後、南朝と協調関係を結び、九州探題として九州地方の掌握を図った。一時は中国地方にも勢力を伸ばし、観応2年(1351年)には京に迫る勢いを見せた。大内弘世・山名時氏ら有力武将の支持を受けて幕府に対抗したが、尊氏の死(正平13年・1358年)後は後ろ盾を失い、貞治2年(1363年)には大内・山名両氏が幕府に降って直冬党は瓦解した。
消息と晩年
貞治6年(1366年)の書状を最後に直冬の動向は史料から消え、その後の消息は不明となる。一説では足利義満に降伏を許され、石見国に隠棲して応永7年(1400年)頃に74歳で没したと伝わる。父に認められることなく波乱の生涯を送った直冬の運命は、南北朝の動乱を象徴するものとして後世の関心を集め続けている。
後世の評価
悲運の武将として太平記文学においても印象的に描かれており、父・尊氏との相克は人間的な葛藤の物語として現代の歴史小説や大河ドラマにおいても繰り返し取り上げられている。
所持した刀剣
- 太刀(南北朝時代)