※画像はイメージです。手掻包永
Tegai Kanenaga
解説
手掻包永(てがいかねなが)は、大和国(現在の奈良県)に興った大和五派の一つ、手掻派の祖であり、その代表工である。通称を平三郎と伝える。手掻派は鎌倉時代末期の正応頃(一二八八年頃)から室町時代中期末の寛正頃(一四六〇年頃)にかけて栄えた一門で、その活躍の発端をなしたのが鎌倉後期の工たる包永である。大和の鍛冶は古来、有力寺院の需要を背景に発達したが、手掻派もまた東大寺に従属し、その境内西方に位置する「輾磑門」(てんがいもん)の門前に居を構えて鍛刀した。この「輾磑(てんがい)」が訛って「手掻(てがい)」と称されるに至ったのが派名の由来であり、当門が手掻門とも呼ばれる所以である。一門は包永のほか包清・包吉・包次・包俊・包光・包真ら、いずれも「包」の一字を名に冠する刀工を輩出した。なお正宗十哲に数えられる志津兼氏は、初銘を包氏といい、手掻派の出身とも伝えられる。
作風は、地鉄に小板目肌へ柾目肌が交じり、地沸がよくつくのを特色とする。これは柾目を基調とする大和伝の地肌の現れであり、手掻派にあっては板目に柾が交じる穏やかな肌合いとなる。刃文は直刃を基調とし、中直刃に喰違刃(くいちがいば)・二重刃(にじゅうば)・ほつれといった働きを交え、刃縁の沸の粒が立ち並んで美しく輝くさまに見どころがある。直刃のほか、互の目の揃った玉垣刃と呼ばれる刃文や、小乱れを交えた作例もみられ、帽子には掃掛けが現れる。姿は健全で、大和物らしい品位を備えた太刀姿を示す。
長く続いた手掻派では、南北朝期までの作を手掻と呼び、室町期に下った後代の作を総称して末手掻(すえてがい)と呼び慣わす。同銘が幾代も継承された結果、手掻派は大和物のなかでも現存作が最も多く、大和鍛冶を代表する一門に数えられている。在銘の太刀に優品が多いことも、この派が広く知られる理由である。
代表作としては、国宝「太刀 銘 包永」(静嘉堂文庫美術館蔵)が名高い。刃長七三・〇センチメートル、反り二・七センチメートルを測る鎌倉時代の作で、反り高く優美な太刀姿に、板目肌が流れて柾目を交え地沸のよくついた地鉄、沸の強い直刃調の刃を焼き、七百年を経てなお健全さを保つ包永の優品である。赤星鉄馬の旧蔵を経て岩崎家に伝わり、現在は静嘉堂の所蔵となっている。また名物「児手柏(このてがしわ)」は、細川藤孝の所持を経て徳川家康に献じられたと伝わる一口で、大正十二年(一九二三)の関東大震災により焼身となったものの現存し、現在は徳川ミュージアム(水戸)に蔵される。これらの確実な在銘作が示すとおり、包永は大和伝を体現する上作として高く評価されている。
代表作
- 太刀(重要文化財)