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永禄5年(1562年)5月20日(旧暦)
河内国高安郡の教興寺村付近(現・大阪府八尾市)
勢力
三好方
畠山方
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教興寺の戦いは、永禄5年5月20日(1562年)、河内国高安郡の教興寺村付近(現・大阪府八尾市)で、三好長慶方と畠山高政方が戦い、三好方が勝った合戦である。同じ三好氏が関わる天文18年(1549年)の江口の戦いとは別の戦いで、年も場所も異なる。
畠山高政と安見宗房は永禄5年2月から動き、3月5日の和泉久米田寺の合戦で三好実休を戦死させ、高屋城を押さえた。これに対し、5月10日、阿波から戻った三好康長らが尼崎に着陣し、三好義興・松永久秀の軍と合流した。教興寺の戦いは、久米田寺で弟を失った三好方が態勢を立て直したのちの戦いにあたる。
三好方は、三好長慶が主力を率い、三好義興、三好康長、三好長逸、松永久秀が加わった。畠山方は、畠山高政、安見宗房、湯川直光と根来衆である。双方の兵力は不詳である。
5月20日、三好軍が教興寺に陣取る湯川直光・根来衆を攻撃した。大館晴光の書状によれば、飯盛山城を囲む根来衆と、義興・康長の軍が交戦した。畠山方の松浦勢の一部が崩れて陣所で火が上がり、これを見た長慶の軍が飯盛山城から出撃して、畠山方を挟撃した。湯川直光が最初に討死し、紀州勢は総崩れとなった。
合戦は三好方の勝利に終わった。畠山方の戦死者は、『細川両家記』に600余とあり、1,000余とする説もあって、数字は一定しない。畠山高政の退却先も、大和国宇智郡とする説と堺とする説がある。
久米田寺の合戦の翌日の3月6日、将軍足利義輝は京都から石清水八幡宮へ移り、戦後の6月22日に京都へ戻った。義輝が戦いに加わったという記述はない。