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1561年03月13日
相模国 小田原城(現・神奈川県小田原市)および鎌倉の鶴岡八幡宮(現・神奈川県鎌倉市)
勢力
上杉・関東諸将連合軍
北条軍(小田原城籠城)
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室町時代の関東では、鎌倉公方を補佐する関東管領の職を上杉氏が代々世襲してきた。戦国時代に入ると、相模の北条氏が伊勢宗瑞(北条早雲)以来、急速に勢力を広げ、関東管領の山内上杉氏と、同じ上杉一門の扇谷上杉氏を圧迫していった。天文15年(1546年)の河越夜戦で北条氏康が上杉方に勝利して以降、関東における北条氏の優位はさらに固まった。
山内上杉氏の当主であった上杉憲政は、北条氏や、甲斐の武田氏に押されて上野の支配も揺らぎ、天文21年(1552年)頃までに本拠の平井城を失って越後の長尾景虎を頼って落ち延びたとされる。景虎は憲政を保護し、関東の秩序を回復する大義名分を得ることになった。なお、景虎の越後は守護代の家柄から出た長尾氏が治めており、景虎は主君にあたる上杉氏の名跡を継ぐことで、関東の諸将に対して正統性を示せる立場にあった。
永禄3年(1560年)、景虎は関東の諸将が北条氏に苦しむ状況を受け、越後を出て関東へ入った(これを「越山」と呼ぶ)。越山の背景には、里見義堯・太田資正・佐竹義昭らをはじめ北条氏に圧迫されていた関東の諸将の援助要請があったとされる。景虎は厩橋城を拠点として北条方の城を次々と攻め、翌永禄4年(1561年)にかけて関東の諸将が景虎の陣に加わった。軍記物は集結した軍勢を約10万と伝えるが、これは誇張とされ、実数を示す確かな史料は乏しい。
永禄4年(1561年)3月、景虎の軍勢は相模へ進み、北条氏康の本拠・小田原城を包囲した。氏康は野戦を避け、城に籠もって防戦する策をとった。小田原城は、城下を取り囲む大規模な外郭と堅固な防備を備えており、氏康は決戦を避けつつ、同盟関係にある武田信玄の動きや、関東諸将の足並みの乱れを待つ構えであったとされる。包囲は約1か月に及んだが、城を攻め落とすには至らなかった。この間、小田原城下で蕎麦を振る舞って余裕を示したという逸話が伝わるが、後世の脚色とされ、史料的な裏付けは乏しい。
包囲が長引いた要因として、一般に次の点が挙げられる。第一に、小田原城の堅固さである。第二に、関東の諸将の寄り合い所帯であった上杉方では、兵糧の確保や、長期の遠征に伴う将兵の疲労、諸将の思惑の不一致が避けがたかったことである。第三に、北条氏と結ぶ武田氏が信濃方面などで動いたため、景虎は越後や北信濃への備えを無視できなかったことである。こうした事情から、景虎は小田原城を落とせないまま、包囲を解いて撤兵に向かった。
小田原城包囲は、景虎にとって戦術上は成功とは言えなかった。しかし同年、景虎は北条氏の勢力下にあった関東の諸将を自らの陣に集め、氏康の本拠にまで軍を進めたこと自体が、関東の諸将に与えた衝撃は大きかった。氏康に従っていた国衆の中にも、景虎方に転じる者が現れたとされる。
小田原からの帰途、景虎は鎌倉に入り、鶴岡八幡宮で儀式を行ったとされる。鶴岡八幡宮は、源頼朝以来の武家の聖地であり、鎌倉公方の拠り所でもあった。この社前で、上杉憲政は景虎に関東管領職と上杉の名跡を譲り、景虎は上杉政虎と名を改めたと伝えられる。「政」の字は憲政の偏諱とされ、のちに将軍・足利義輝から一字を受けて輝虎、さらに出家して謙信と名乗ることになる。
この継承は、法的には、将軍の追認や朝廷の承認を要する関東管領職の継承としては多分に儀礼的であり、足利義輝からの承認があったかどうかには議論がある。しかし、鶴岡八幡宮という場所での儀式には、関東の武士に対して「上杉の正統は景虎に移った」ことを視覚的に示す役割があった。この儀式を通じて、景虎は関東の諸将を従える正統性を得たとされ、のちの謙信が「義」を重んじる武将として語られる一因ともなった。
同じ永禄4年(1561年)の9月、景虎改め政虎は川中島で武田信玄と第四次の合戦に臨んだ。この戦いについては別項で述べるが、関東出兵と信濃方面の戦いが連動していたこと、つまり上杉政虎が関東と信濃の両面で消耗を強いられたことは、この時期の大きな特徴である。北条氏康はその後、失地の回復を進め、永禄7年(1564年)には第二次国府台合戦で里見・太田勢を破って関東での優位を取り戻した。謙信はその後も関東へ出兵を重ねたが、関東全域を長期に確保するまでには至らなかった。
小田原城は、北条早雲以来、相模・伊豆を押さえる北条氏の本拠として整備されてきた。のちの豊臣秀吉による小田原攻め(1590年)では城下を含めた大規模な総構えが知られるが、永禄4年の時点でどの程度の規模であったかについては、確かなことは言いにくい。ただ、上杉軍が長期の城攻めを断念したことは、氏康がこの城に拠れば大軍を迎え撃てると判断していたことを示している。氏康は河越夜戦で野戦に勝利した経験を持つ一方、大軍を相手にするときには守りに徹する柔軟さを持っていたとされる。
関東管領職は、本来は室町幕府の将軍が任命する職であり、鎌倉府の長である鎌倉公方を補佐する役割を持っていた。しかし永禄年間には鎌倉公方の体制そのものが事実上崩れており、古河公方の足利氏と北条氏の関係も複雑であった。この状況で景虎が関東管領を名乗ることは、関東の秩序を旧来の枠組みで再建する宣言であり、北条氏に対しては「秩序を乱す者」という位置づけを与えることにもなった。景虎が名乗った上杉の名は、越後の長尾氏にとって家格を引き上げる効果もあったとされる。
また、鶴岡八幡宮での継承には、上杉憲政の側にも事情があった。憲政は本拠を失った亡命の身であり、自らの名跡と職を実力のある景虎に託すことが、上杉氏の正統を後世に残す唯一の道だったとも考えられる。憲政と景虎の関係や、継承の細部については、軍記や後世の編纂物による記述に差があり、確定的な点は多くない。
包囲の後、景虎に従った関東の諸将の結束は次第にほころび、北条方に戻る者も現れた。氏康は武田信玄との連携を保ちながら、失った拠点の奪回を進めた。政虎(のち輝虎)はたびたび関東に出陣したものの、冬には越後へ戻らざるを得ず、その間に北条氏が勢力を戻す、という繰り返しが続いたとされる。この構造的な限界が、のちの上杉氏の関東政策の特徴となった。
小田原城包囲と鶴岡八幡宮での継承儀礼は、「武力」と「権威」の二つの側面を持つ出来事であった。戦国大名の戦いは、単に城を落とすかどうかだけでなく、「誰が正統な支配者か」を領内外に示す政治行為でもあった。景虎が儀式を鶴岡八幡宮で行ったことは、武家の始祖・源頼朝の事績に連なる権威を借りる意味があったと考えられる。
なお、本稿は特定の刀剣の逸話を扱わない。上杉謙信にまつわる刀剣としては、のちの時代に伝わる名刀の話が数多くあるが、この出来事と直接結びつく確かな史料は限られており、ここでは触れない。
本稿は、歴史情報サイト serai.jp の関連記事、小田原市が公開している小田原城・北条氏関連の資料を典拠とした。包囲の期間、軍勢の規模、鶴岡八幡宮での儀式の日付や経緯などについては、史料により記述が異なるため、確定できない点は「とされる」と記した。