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※画像はイメージです。日本刀の五箇伝(ごかでん)のひとつである大和伝(やまとでん)は、現在の奈良県一帯を指す大和国で発展した鍛刀文化の総称である。その大和伝を構成する主要な流派が「手掻派(てがいは)」であり、ほかに千手院派(せんじゅいんは)・保昌派(ほしょうは)・尻懸派(しりかけは)・当麻派(たいまは)が並ぶ。
手掻派の名称は、東大寺に従属し、東大寺西北の大門にある「転害門(輾磑門・てがいもん)」の前に住んで鍛刀したことに由来するとされる。「手掻(てがい→てがき)」とは転害門(輾磑門)の読みが訛って「手掻」となったとするのが定説で、東大寺の庇護のもとで鍛刀を行うことが集団のアイデンティティとなっていた。鎌倉時代中期から後期にかけて隆盛を誇り、代表工として「包永(かねなが)」が名高い。
手掻派の中で最も高名な刀工は包永である。活躍期は鎌倉時代後期の正応・永仁年間(1288〜1298年)頃とされる。包永の作刀は大和伝の典型的な特徴をすべて備えており、後世の刀剣研究において「大和伝の手本」として繰り返し参照されてきた。
包永の刀の特徴を列挙すれば、まず地鉄の鍛え肌は柾目(まさめ)が流れるように交じる小板目(こいため)系で、地沸(じにえ)が細かくよく入る。刃文(はもん)は小のたれに小互の目(こぐのめ)が交じる穏やかな乱れで、直刃(すぐは)に近い静けさを持つ。沸(にえ)は強く、刃中(はなか)に金筋(きんすじ)や砂流し(すながし)が現れることが多い。帽子(ぼうし)は小丸に返り、穏やかな雰囲気を醸す。これら全体が相まって、備前系の華やかさとも相州系の激しさとも異なる、「質実剛健」と形容される大和伝固有の美を体現している。
大和伝全体に共通する最大の技術的特徴は「柾目(まさめ)肌」である。備前伝が板目(いため)を基調とし、相州伝が大肌・流れ肌を見せるのに対し、大和伝は鍛えが柾目に流れる傾向がある。この柾目肌は素材の扱い方と折り返し鍛錬の方向性に起因すると考えられている。
鍛冶師が鋼を折り返す方向を常に一定に保ち、繊維状の鉄組織が縦方向に揃うよう丹念に積み鍛えることで、木の年輪を縦断したような筋目が現れる。この柾目は刀の反りに沿って走ることが多く、視覚的には端正で神経質な印象を与える。大和国は古来より「神聖な土地」として位置づけられ、その清廉な土地柄が鍛冶師の気質にも反映されたと評する刀剣家は少なくない。
包永の後、手掻派は複数の工匠によって継承された。「手掻国安(てがきくにやす)」「手掻包吉(てがきかねよし)」「手掻包清(てがきかねきよ)」など、包永銘を継ぐ「包」の字を受け継いだ刀工、あるいは「手掻」の冠を名に冠した刀工が室町時代を通じて作刀を続けた。
彼らの多くは東大寺に関わる工人として活動しており、宗教的な庇護のもとで鍛刀を行った。これは信仰と鍛冶が一体となった大和国特有の文化であり、備前や相州の刀工が武家や商人との取引を主な生業とした点と対照的である。奈良という土地の神聖さが、手掻派の刀の雰囲気を「武の道具」というより「神域の工芸品」に近い位置に置いてきた。
手掻派の作刀は現在、国宝・重要文化財に指定された名品が複数存在する。包永の真作とされる刀は国宝に指定されたものもあり、刀剣博物館や奈良国立博物館での特別展示で見ることができる。鑑定の際には以下の点が着目される。
第一に「柾目がかった小板目肌」の確認。地鉄に流れる柾目の線条は、手掻派を見分ける最大の指標である。第二に「沸の強さ」。大和伝全般に言えることだが、手掻派は地沸が比較的細かく多い。第三に「直刃基調の刃文」。包永に代表される手掻派は直刃に小乱れが加わる刃文を好み、相州の「皆焼(ひたつら)」のような激烈な表現は採用しない。第四に「帽子の形」。小丸帽子が多く、沸が強い場合には「乱れ込み(みだれこみ)」が帽子にも及ぶことがある。
手掻派は奈良という宗教都市の精神性を背景に、質実にして清廉な刀剣美を追求した。五箇伝の中でも大和伝は武家権力との距離が最も遠く、純粋に信仰と工芸の文脈で発展した流派群である。その中で手掻派は包永という不世出の名工を輩出し、以降の大和伝の規範を定めた。
現代においても手掻派の柾目地・強沸の直刃という美学は「大和の刀」を象徴するものとして尊重され、刀剣鑑賞の世界では五箇伝を理解するための基礎として必ず参照される存在となっている。
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