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※画像はイメージです。南北朝時代(1336〜1392年)の中でも、観応の擾乱(かんのうのじょうらん、1350〜1352年)は特に複雑な政変だ。足利幕府の内部で将軍・足利尊氏とその弟・足利直義の対立が深刻化し、さらには高師直(こうのもろなお)ら側近勢力も絡んで、南朝・北朝の争いに幕府内部の抗争が重なる多重的な内戦となった。
この擾乱は3年に及ぶ混乱の末、直義の死(1352年2月)で一応の決着を見たが、その後も南北朝の争いは続き、全国的な戦乱状態は半世紀以上にわたった。
擾乱という呼称が示すとおり、この政変は将軍家の内紛にとどまらなかった。直義は劣勢に立たされた局面で一時的に南朝方へ帰順し、尊氏・師直方と戦うなど、対立の構図は南朝・北朝という単純な図式では捉えきれないほど錯綜していた。直義の死の経緯についても毒殺の可能性を指摘する説があり、当時の政争がいかに激しいものであったかを物語っている。
観応の擾乱が起きた14世紀中盤は、日本刀史において「大太刀・野太刀の時代」と呼ばれる特異な局面だ。
南北朝時代には戦闘形態が鎌倉時代と大きく変化した。少数精鋭の騎馬戦から、歩兵中心の集団戦・長期籠城戦へと移行したのだ。これに伴い、刀剣に求められる要件も変化した。
こうした需要の変化は刀身の姿だけでなく、拵え(こしらえ、刀身を収める外装一式)にも及んだ。長大な刀身を実戦で扱いやすくするための柄(つか)や下げ緒の工夫など、実用性を優先した拵えが求められた時代でもある。
南北朝期を通じて最も重要な刀剣産地は備前(現・岡山県)、特に長船(おさふね)の刀工集団だ。観応の擾乱期にも長船派の主要刀工は活発に活動しており、以下の刀工が特に知られる。
相模(神奈川)の相州伝刀工も観応の擾乱期に重要な役割を果たした。正宗の弟子たちが各地に分散して技術を伝えており、尊氏・直義双方の勢力圏にいた武将たちが相州伝の刀を求めた。
広光(ひろみつ)・秋広(あきひろ)は観応〜正平年間に活動し、相州伝の特徴である激しい沸(にえ)・乱れた刃文を完成させた刀工として名高い。
足利尊氏は刀剣の愛好家として知られており、有力な刀工を保護した記録がある。一方の直義も政務・文化的事業に熱心で、鎌倉以来の刀剣文化の保護者としての性格を持っていた。
両者の対立は単なる権力争いではなく、幕府の統治方針(尊氏が武断的・直義が文治的)をめぐる理念的対立でもあった。この対立が刀剣文化に直接的な影響を与えたとは言い難いが、双方の陣営に有力な武将・大名が分かれたことで、各産地の刀工もどちらかの陣営の武器需要に応じる形となった。
観応の擾乱の直接的な結果として刀剣文化に与えた影響はいくつかある。
南北朝期に作られた大太刀は、後世に姿を変えられた例が少なくない。江戸時代以降、実用に適した長さへ磨上げ(すりあげ、茎を短く仕立て直すこと)が施された作品が多く、そのため当初の銘が失われているものも見られる。銘が失われた場合でも、折り返し銘や金象嵌銘によって元の作者名を後世に伝える工夫がなされた例が知られており、こうした痕跡自体が来歴を読み解く手がかりとなる。
このような事情から、南北朝期の刀剣を鑑賞・収集する際には、姿や刃文だけでなく、茎(なかご)の状態や銘の残り方からも時代背景を読み取ることができる。NBTHK(日本美術刀剣保存協会)の鑑定書は、こうした真贋・時代・作者の判定を専門家が行った結果を示すものであり、磨上げや銘の状態が複雑になりやすい南北朝物を扱ううえで、来歴とあわせて重要な参考情報となる。
観応期の在銘刀そのものは現存数が限られており、その多くは博物館・神社仏閣の所蔵となっている。市場で見かける機会は多くないが、手にする際にはNBTHKの鑑定書に加えて、伝来(誰がどのように所持してきたか)についての情報も、価値を見極めるうえで参考になる。
観応の擾乱は、南北朝時代を語る上で避けられない複雑な政変だが、刀剣史においては「南北朝様式刀剣の最盛期」と重なる重要な時代だ。長船派を中心とする備前刀工の大量生産体制、相州伝の影響力拡大、そして各地への技術拡散がこの時期に進んだことで、後の室町・戦国時代の刀剣文化の基盤が形成された。
日本刀×日本文化体験
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