新着情報 — 最新の入荷情報はカタログをご確認ください。 商品を見る →
※画像はイメージです。正保元年(1644年)から延宝9年(1681年)にかけての約40年間は、江戸幕府の支配体制が最終的な形を整えていく時期にあたる。徳川家光の治世末期から4代家綱の治世にかけて、戦国の記憶を色濃く残す「寛永期」の刀剣文化と、太平の世を前提とした元禄前夜の刀剣文化との間に挟まれたこの時代は、二つの大事件――明暦の大火と慶安の変――によって、刀剣をめぐる需給や社会の空気が大きく揺さぶられた過渡期であった。年号だけを見れば正保・慶安・承応・明暦・万治・延宝と目まぐるしく改元が重ねられているが、その内実は江戸という都市そのものの姿と、武家社会の統治のあり方が同時に問い直された、地味ながら重要な数十年間であったといえる。
明暦3年(1657年)正月、江戸で発生した明暦の大火は、江戸市中の大半を焼き尽くし、江戸城天守までも失わせた近世最大級の火災として知られる。この火災による死者は諸説あるが数万人規模に及んだと伝わり、以後、焼け落ちた天守は再建されることなく現在に至っている。刀剣・刀装具の研究者である伊藤三平氏の推計によれば、この大火で江戸だけで焼失した刀剣は約10万振りにのぼるとされる。大名屋敷や旗本・御家人の屋敷が密集していた江戸には、代々の当主が受け継いできた家宝の刀剣が数多く伝えられており、それらが火の海の中で一度に失われた計算になる。
この焼失の規模を象徴するのが、享保4年(1719年)に本阿弥光忠らの監修でまとめられた「享保名物帳」の記録である。同帳には当代随一とされた名物刀剣168振りが選定されているが、そのうち69振りが明暦の大火で失われたと記されている。上杉謙信ゆかりと伝わる「上杉江」、足利将軍家の重宝であったと伝わる「大国綱」、徳川将軍家に伝来したと伝わる「包丁藤四郎」など、名だたる名刀がこの大火の記録に名を連ねているとされる。真偽や焼失の詳細な経緯まではなお不明な点も多いが、江戸に集積していた武家伝来の刀剣が、この一夜にして大量に失われたという事実そのものは、当時の武家社会に深い衝撃を与えたと考えられる。
明暦の大火に先立つ慶安4年(1651年)には、由井正雪・丸橋忠弥らによる幕府転覆計画、いわゆる慶安の変(由井正雪の乱)が発覚している。この計画は将軍徳川家光の死去直後という時期に露見し、未遂に終わったものの、幕閣に強い危機感を与えた。
この事件の背景にあったのが、改易によって主家を失った牢人(浪人)の増加であった。江戸開府から半世紀、大名の取り潰しが相次いだ結果、生活の当てを失った牢人が江戸をはじめ各地に滞留し、社会不安の温床となっていたとされる。由井正雪自身も軍学者として牢人たちに慕われた人物であったと伝わり、彼のもとに不満を抱える牢人が集まったことが、計画の広がりを後押ししたとも考えられている。牢人たちは主家を失ってもなお帯刀の身分を保つ者が多く、彼らの存在は当時の刀剣需要や武具の流通にも少なからず影響を及ぼしたと考えられている。
慶安の変の発覚を受け、幕府は牢人対策を政策の重要課題として位置づけるようになる。それまで厳格に運用されていた「末期養子の禁」――当主が末期(死の間際)に養子を立てて家を存続させることを原則認めない制度――が緩和され、大名家の急な取り潰しを減らす方向へと舵が切られた。
この政策転換は、力による統制を優先した「武断政治」から、法や制度を通じた安定統治を志向する「文治政治」への転換点の一つとされる。戦場での武功よりも、家の存続と秩序の維持が重んじられる時代へと、幕府の姿勢そのものが変わりつつあったことがうかがえる。武力による威圧だけでは治めきれない牢人問題という課題に直面したことで、幕府は制度の柔軟化によって社会の安定を図るという、より長期的な統治の発想を身につけていったとも言えるだろう。
明暦の大火による大量の刀剣焼失は、皮肉にも新たな刀剣需要を生み出す一因になったともされる。伝来の名刀を失った武家が代替の刀を求めたことが、その後の寛文新刀期(寛文年間、1661〜1673年)にかけての刀剣需要を下支えした一因と考えられている。
この時期を象徴する刀工の一人が、後世「虎徹」の名で知られる長曽祢興里である。近江出身で甲冑師として身を立てていた興里は、明暦年間の初め頃、50歳前後で刀工へと転じ、越前から江戸へ移り住んだと伝わる。太平の世が続くにつれて甲冑の需要が細り、代わって刀剣への需要が武家社会の実用・所持双方の面で高まっていったという当時の空気の変化が、こうした刀工の転身の背景にあったとも考えられる。興里はその後、延宝期にかけて江戸を代表する刀工として名を馳せることになるが、その活動の起点が明暦の大火とほぼ同じ時期であったことは、この時代の刀剣需要の変化を象徴する巡り合わせといえるだろう。
正保・慶安・承応・明暦・万治・延宝と改元が重ねられたこの時代は、暦の上では平穏に見えても、実際には大火という偶発的な災厄と、牢人問題という構造的な火種の両方を抱えた時期であった。しかし慶安の変を経た幕府の政策転換と、明暦の大火からの復興過程を通じて、戦国の余燼はこの時期にほぼ完全に鎮まり、刀剣もまた実戦の道具から、家の格式や武家の嗜みを象徴する存在へと、その位置づけを確かなものにしていったと言える。
日本刀×日本文化体験
観光スポットと刀剣文化をつなぐ多言語展開。