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※画像はイメージです。本庄正宗(ほんじょまさむね)を語るには、まず鍛刀者・正宗(岡崎正宗)の位置から確認しなければならない。正宗は鎌倉時代末期から南北朝時代初期(13世紀末〜14世紀初頭)にかけて相模国鎌倉で活躍した刀工であり、日本刀史上において「相州伝の完成者」として最高の評価を受ける。
正宗の刀の特徴は沸(にえ)崩れとも評される激しい乱れ刃文と地鉄の鍛えの精緻さの融合にある。備前伝や大和伝とは一線を画す新様式「相州伝」を大成し、後世の刀工に多大な影響を与えた。正宗の弟子たちは「正宗十哲」と呼ばれ、各地の刀剣文化を形成した。
正宗の現存作品は少なく、日本美術刀剣保存協会(NBTHK)が「正宗作」と認定した刀は国内外合わせて数振りに限られる。本庄正宗はその中でも正宗の最高傑作として名高い一振りである。
「天下五剣」とは、日本刀の歴史上で特に名高いとされる五振りの総称であり、以下の五振りが通常挙げられる。
| 刀名 | 鍛刀者 | 現状 |
|---|---|---|
| 童子切安綱 | 大原安綱 | 東京国立博物館蔵(現存・重文) |
| 鬼丸国綱 | 粟田口国綱 | 宮内庁蔵(現存) |
| 三日月宗近 | 三条宗近 | 東京国立博物館蔵(現存・国宝) |
| 大典太光世 | 三池光世 | 前田育徳会蔵(現存・国宝) |
| 数珠丸恒次 | 恒次(青江) | 本興寺蔵(現存) |
これら五振りはいずれも現存・所在が確認されている。一方、同じく正宗の最高傑作と称される本庄正宗は天下五剣には含まれないものの、戦後に所在不明となったことがさらに関心を高めている。
本庄正宗の名称は、戦国時代の越後武将・本庄繁長(ほんじょしげなが)に由来する。繁長は上杉謙信に仕えた猛将であり、謙信の死後は景勝に仕えた。
刀の初期の来歴は明確ではないが、南北朝〜室町期に相模から関東・越後方面へ伝わったと推定される。上杉家が謙信の時代に日本刀の収集・保管に熱心だったことは知られており、本庄正宗も越後での所蔵段階で「謙信ゆかり」の刀剣群の中に含まれていたとも考えられる。
その後、本庄繁長の手に渡った時期・経緯については確実な史料がない。「本庄」という名が冠されているため、繁長が所持していた時代に現名称が定着したとみられる。
関ヶ原の戦い(1600年)の後、上杉家は会津120万石から米沢30万石へ大幅に減封された。この時期、上杉家が所持する名宝の多くが売却・献上の対象となった可能性が高い。
本庄正宗は上杉家から徳川将軍家へ献上された記録が残っており、江戸時代には幕府御物(おもの)として厳重に保管された。将軍家の刀剣コレクションは「御剣所(おんけんしょ)」と呼ばれる管理機関に預けられており、天下五剣クラスの名刀は特別な扱いを受けた。
江戸期を通じて本庄正宗は将軍家の手元に留まり、明治維新後は旧将軍・德川宗家の管理下に移った。
太平洋戦争終戦後の1945年末、徳川宗家(17代当主・徳川家正)から連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)への刀剣接収が行われた。本庄正宗はこの接収リストに含まれており、記録では担当した人物として「Coldy Bimore 軍曹(Sergeant Coldy Bimore)」の名が挙がるが、実在を示す公式記録は確認されていない。
しかしこれ以降、本庄正宗の消息は完全に途絶える。GHQが接収した刀剣の一部は返還されたが、本庄正宗は返還リストに載ることなく現在に至る。
戦後の追跡では以下の可能性が検討されてきた。
日本刀文化財団や刀剣愛好家団体による調査が断続的に行われているが、2026年現在も本庄正宗の所在は確認されていない。
本庄正宗への関心が衰えない理由は、単に「失われた名刀」という謎だけではない。正宗の刀は日本刀史上の最高峰であり、その中でも正宗の最高傑作と伝わる本庄正宗は、現存する正宗作として確認できれば日本美術史上の最大の発見となる。
また、日本刀という文化財が戦後の混乱の中でどのように失われていったかを示す象徴的な事例でもある。文化財の接収・喪失という問題は現代でも国際的な議論の対象であり、本庄正宗はその最も劇的な実例のひとつとして語り継がれている。
刀剣愛好家・歴史研究者にとって、本庄正宗の発見は「日本刀最大のロマン」であり続けている。