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※画像はイメージです。宝永・正徳期は、五代将軍徳川綱吉の晩年(宝永元年・1704年)から始まり、六代将軍家宣、七代将軍家継の時代を経て、正徳五年(1715年)に至る約12年間を指す。この時代は、元禄文化(1688〜1703年)の爛熟期の直後にあたり、社会全体が贅沢への反省と儒学的秩序の再建へと向かった転換点でもあった。
刀剣の世界においても、この時期はひとつの区切りをなしている。元禄期に頂点を迎えた「飾り刀」の美学がやや落ち着きを見せ始め、刀装工芸の精緻化と刀身自体の品質回帰が模索される時代となった。
五代綱吉から六代家宣への将軍交代は、幕府御抱え鍛冶(御番鍛冶)の陣容にも変化をもたらした。綱吉期に幕府や大名家の庇護を受けた刀工の多くは、主君の代替わりと共に後ろ盾を失い、独立工房として活動せざるを得ない状況に置かれた。
一方で六代家宣は、儒学者・新井白石を側近として登用し、政治の刷新(正徳の治)を進めた。新井白石の儒学的礼制重視の姿勢は、刀剣を「武の象徴」から「礼節の器物」として再定義する方向性と合致するものだった。刀装における品格の重視が、この時代の一つの潮流となっていく。
刀身の形態に注目すると、宝永・正徳期の刀は元禄期の薄く軽い「装飾重視型」から、わずかながら実用的な肉置きへの回帰が見られる。ただしこの変化は漸進的であり、目立った「新傾向の刀」が生まれたわけではなく、むしろ良質な新刀の安定的な供給という面でこの時代を評価すべきだろう。
刃文は直刃・穏やかな互の目が多く、過度な豪華さを避けた落ち着いた作風が主流だった。地鉄は相変わらず大坂新刀の影響下にある滑らかなものが多いが、山城伝を意識した板目(いため)の表現を試みる刀工も存在した。
著名な刀工としては、大坂新刀の巨匠・初代ソボロ助広の後を継いだ2代津田越前守助広の系統や、摂津守忠行らの名が挙げられる。これらの刀工はいずれも、前世代の大家の技を継承しつつ、時代の落ち着きに応じた堅実な作風を確立した。
この時代を最も特徴づけるのは、刀装(拵え)工芸の精緻化である。「正徳拵え」と後世に称される様式は、柄頭・縁・鍔・目貫などの金具が精巧な彫金で飾られ、全体としての統一感と品格を重視したものだ。
金工の技術面では、片切り彫り・毛彫り・丸彫りを組み合わせた複合的な彫金技法が成熟した。鐔(つば)においては鉄鐔の渋い趣とともに、金銀象嵌を施した金工師(きんこし)流の華やかな意匠も人気を博した。横谷宗珉(よこたにそうみん)ら後の金工の巨匠につながる技術的蓄積が、この時代に深まったと見ることができる。
鞘の塗装においても、研ぎ出し塗り・蒔絵を用いた意匠が洗練されてきた。将軍家や上位大名の注文刀装に限らず、富裕な商人層や旗本が注文する「準礼装刀」としての拵えに、この種の精緻な意匠が流用されるようになっていった。
宝永元年(1704年)、綱吉は自身の悪名高い「生類憐みの令」を廃止した(正確には綱吉没後の宝永六年・1709年に家宣が全廃)。この政策の変化は、社会心理として「実用・武」への再肯定という雰囲気をもたらし、刀剣への関心が商人層を含めて再燃する素地となった。
また綱吉晩年は財政危機が続き、生活水準を維持しようとする武士階級が刀剣を「売却・換金」する事例も増えた。刀剣商(刀剣屋)はこの時代に着実に市場機能を確立し、古刀・名作刀の流通が活発化した。この「中古刀流通市場」の成熟は、後の鑑定学・刀剣収集文化の発展に直結する。
新井白石の政治改革は、武家社会における礼制の整備という面で刀剣文化に影響を与えた。白石は朝鮮通信使の接待儀礼を改訂し、従来の「日本国大君」の称号を廃して「日本国王」へ改めた(正徳元年・1711年)。「大君」は格が低いと判断したためであり、外交上の格式を高める意図があった。このような礼制強化の姿勢は、大名が公式の場で佩用する刀装の品格要求にも反映された。
宝永・正徳期は、派手さより品格、装飾より礼節を軸に刀剣文化が整理された時代である。元禄の爛熟から享保の質素倹約へ向かう中間期として、この時代の刀剣は控えめながらも技術的に成熟した姿を持ち、後世のコレクターからは「地味だが質が高い」と評価されることが多い。
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