※画像はイメージです。吉岡妙林尼
Yoshioka Myōrin-ni
鶴崎城を死守した大友家の女城代
解説
吉岡妙林尼(よしおか みょうりんに)は豊後の大名・大友宗麟の家臣で、鶴崎城(現大分市)を預かった吉岡鎮興(しげおき)の妻である。夫・鎮興は天正6年(1578年)の耳川の戦いで討死し、以後は嫡男・吉岡統増(むねます)が家督を継いだが、当時なお年少であったため、妙林尼が事実上の後見・城代として鶴崎城の防衛を主導したと伝わる。「妙林尼」は夫の死後に出家した際の法号とされ、本名は丹生小次郎正俊の娘、あるいは林左京亮の娘など諸説あり判然としない。
耳川の戦いでの敗北以降、大友氏は北の龍造寺氏、南の島津氏という二大勢力の圧迫を受けて急速に勢力を弱め、天正14年(1586年)末には島津義弘・家久らが豊後領内へ本格的に侵攻した(いわゆる豊薩合戦)。この島津の豊後侵攻はのちに豊臣秀吉による九州平定を招く一因ともなった大規模な戦役であり、鶴崎城もその渦中で攻め寄せられた城のひとつであった。統増は大友宗麟の命で他所の守備に当たっており不在であったため、城を指揮したのは妙林尼であったという。手勢は老人や農民を含む限られた兵力にすぎず、正規の城兵は乏しかったとされるが、落とし穴や鳴子(音による威嚇・警報装置)、鉄砲を組み合わせた奇策を用いて島津勢の攻撃をたびたび撃退し、伝えられるところでは十数度に及んだという。最終的に食糧が尽きたことから、同年12月29日、城兵全員の助命を条件に和議に応じて開城したと伝えられる。この戦いの詳細な経過は主に江戸期に成立した軍記物語『豊薩軍記』や、後世の郷土史料である『豊後鶴崎町史』等に依拠しており、撃退回数や具体的な戦術描写、島津方の反応といった細部については史実性をめぐる議論があることに留意すべきである。
妙林尼はその後も生き延び、天正19年(1591年)7月23日に没したとされる。乏しい兵力と即席の防御手段のみで、当代最強とも評された島津の大軍を長期にわたり退けた智将として、大友氏の女性家臣の中でも特に名高く、九州の戦国史における代表的な女性の武功譚の一つとして今日まで語り継がれている。
所持した刀剣
- 鉄砲(鶴崎城籠城戦で島津勢を撃退するために鳴子・落とし穴と組み合わせて用いたと伝わる)