戦国時代1556年-1582年
土屋昌恒
Tsuchiya Masatsune
武田勝頼に最後まで殉じた忠臣——天目山「片手千人斬り」の伝説を残した武田家臣
解説
生涯
土屋昌恒は弘治二年(一五五六年)、金丸筑前守の五男として生まれた。永禄十一年(一五六八年)、十三歳で初陣を飾ったと伝わる。天正三年(一五七五年)の長篠の戦いで実兄・昌次と養父・土屋貞綱が討死したため、土屋家の名跡を継いだ。
武田家中での立場
武田信玄・勝頼の二代に仕えた譜代の重臣で、東海道方面や関東方面の諸戦にも従軍したと伝わる。
天目山の戦いと最期
天正十年(一五八二年)、織田・徳川連合軍の侵攻により武田氏が崩壊する中、多くの家臣が離反する中でも昌恒は最後まで勝頼に付き従った。天目山への逃避行の途上、昌恒は片手で藤蔓につかまって崖からの転落を防ぎながら、もう一方の手で刀を振るって追撃する織田方の兵を防いだと伝わり、この奮戦が主君・勝頼が自害する時間を稼いだとされる。この働きは後世「片手千人斬り」の異名で語り継がれている。
逸話
昌恒が奮戦した際に多くの敵兵が川に落ち、三日間水が赤く染まったとする伝承があり、この川はのちに「三日血川」と呼ばれるようになったと伝わる。
後世評価
土屋昌恒は、主家の滅亡に際して一族の多くが離反する中でも忠義を貫いた武将として、武田家臣団の中でも特に高く評価され、「片手千人斬り」の逸話とともに主従の情義を象徴する人物として語り継がれている。