島津貴久
Shimazu Takahisa
薩摩を統一し、日本で初めて鉄砲を実戦投入したとされる戦国大名
解説
島津貴久(しまづ たかひさ、永正11年〈1514年〉-元亀2年〈1571年〉)は、戦国時代の薩摩国の大名。島津氏庶流・伊作家(後に相州家も継承)の当主・島津忠良の嫡男で、薩摩を統一し島津氏の戦国大名化を果たした人物である。
出自と家督相続の混乱
貴久は薩摩国田布施の亀ヶ城に生まれた。大永6年(1526年)、島津宗家当主・勝久に実子がなかったことから貴久はその養子となり、翌大永7年(1527年)に清水城で家督を継承する。しかし同年5月、勝久は縁組を反故にする「悔返」を宣言し、貴久は薩摩守護の座を追われた。
薩州家との抗争と権力確立
勝久を擁立した薩州家・島津実久との抗争が長期化する中、貴久は父・忠良の支援を受けて反攻に転じる。天文5年(1536年)に伊集院城を奪還し、天文7-8年(1538-1539年)には加世田城を攻略、紫原の合戦で実久方を打ち破ったことで薩摩における実権を掌握した。天文21年(1552年)、室町幕府・朝廷から正式に守護としての地位を認められている。
鉄砲の実戦投入
貴久の事跡で特に注目されるのが火縄銃の実戦使用である。天文12年(1543年)の種子島への鉄砲伝来からほどなく島津氏は火縄銃を導入し、入来院氏との戦いにおいて実戦投入したとされる。史料上、鉄砲を戦場で用いた日本最古級の事例として位置づけられており、貴久は西国大名の中でもいち早く新兵器の軍事的価値に着目した人物として評価されている。
大隅戦役と晩年
天文23年から弘治2年(1554-1556年)にかけて、貴久は西大隅の蒲生氏らと一連の合戦を展開し、大隅方面への勢力拡大を進めた。永禄9年(1566年)、長男・義久に家督を譲って隠居するが、その後も後見として実権を握り続けたとされる。元亀2年(1571年)、大隅の肝付氏との抗争が続く中、加世田で58歳の生涯を閉じた。
後世の評価
貴久の代に確立された基盤の上に、子の義久・義弘・歳久・家久の「島津四兄弟」が九州制覇に迫る勢力を築いたことから、貴久は近世島津氏の実質的な祖と位置づけられる。鉄砲をいち早く軍備に取り入れた先見性は、後の島津氏の軍事力を支える重要な布石として、戦国史研究でもしばしば言及される。