※画像はイメージです。江戸時代初期1600?-1615
真田幸昌
Sanada Yukimasa
父・幸村と大坂城に散った嫡男——十代半ばで自刃した悲劇の若武者
解説
出自
真田幸昌(さなだ ゆきまさ)は、通称の大助(だいすけ)としても知られ、真田信繁(幸村)の嫡男である。母は大谷吉継の娘・竹林院。生年には慶長5年(1600年)、慶長6年(1601年)、慶長7年(1602年)、慶長8年(1603年)など諸説あり、確定していない。関ヶ原の戦い後、信繁が紀伊国九度山で蟄居生活を送っていた時期に生まれたとされる。
大坂入城
慶長19年(1614年)、大坂の陣の勃発にともない、幸昌は父・信繁とともに九度山を脱出して大坂城に入った。父の傍らで大坂方に加わり、若年ながら戦いに身を投じることとなる。
大坂夏の陣・道明寺の戦いと父の命
慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、道明寺の戦いに出陣し、敵将の首を挙げる働きを見せたが、自身も手傷を負った。豊臣秀頼が和睦を検討しているとの噂を聞いた信繁は、幸昌に秀頼のもとへ戻って様子を見届け、和睦を思いとどまらせるよう命じたと伝わる。幸昌は父とともに最後まで戦うことを望んだが、父の命に逆らえず、やむなく大坂城へ引き返した。
最期
慶長20年5月8日(1615年6月4日)、大坂城が落城する際、幸昌は逃げることを拒み、城内(三の丸とも山里丸とも伝わる)で自刃した。「我は真田左衛門佐信繁の倅なり」と名乗りを上げ、加藤弥平太の介錯によって果てたと伝わる(一説には刺し違えたともいう)。享年は生年の諸説により13歳から16歳の間と推定される。
後世の評価
幸昌は「真田十勇士」など後世の講談・軍記物にも「真田大助」の名で登場し、父・幸村と運命をともにした悲劇の若武者として語り継がれている。