※画像はイメージです。江戸時代初期1596-1626
本多忠刻
Honda Tadatoki
播磨姫路新田藩主・従五位下中務大輔
解説
本多忠刻(1596-1626)は本多忠政の長男として生まれ、江戸時代初期の播磨姫路新田藩を領した大名である。通称は平八郎。祖父・本多忠勝の名声を受け継ぐ家柄に生まれ、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では道明寺の戦いに参加して実戦を経験した。
元和2年(1616年)、徳川秀忠の長女・千姫と結婚。千姫は豊臣秀頼の正室であったが、大坂城落城時に救出され、多額の化粧料(10万石分)とともに本多家に嫁いだ。忠刻と千姫の間には娘・勝姫(1618年生)と息子・幸千代(1619-1621年没)が生まれた。
剣術への関心が高く、宮本武蔵を姫路城下に招聘して自身および家臣団への指南を命じたことが記録されている。武蔵が姫路に滞在した時期は彼の兵法確立の歴史において重要な意味を持つ。
元和9年(1623年)頃より病に侵され、寛永3年(1626年)に31歳の若さで没した。千姫はその後出家して天樹院を号し、江戸時代を通じて縁切寺として知られる東慶寺への寄進など宗教活動を続けた。