※画像はイメージです。佐久間信盛
Sakuma Nobumori
織田信長の宿老・本願寺攻略戦の総大将
解説
佐久間信盛(1528-1582)は、織田家の宿老として長年にわたり信長を支え続けた武将であるが、その晩年は信長から「折檻状」と呼ばれる厳しい叱責文書を突きつけられ、高野山へ追放されるという波乱の結末を迎えた人物である。戦功の乏しさを徹底的に指摘された「折檻状」は、信長の苛烈な主従関係を示す歴史的文書として今日も注目される。
信盛は尾張国(現在の愛知県)出身の織田家の重臣であり、若年より信長に仕えた。桶狭間の戦い(1560年)にも参加しており、その後も各地の合戦で活躍した。特に対本願寺戦では長期にわたって総大将を務め、石山本願寺(現在の大阪城付近)を長年封鎖し続けた。この戦いは単純な攻城戦ではなく、水軍・補給路の管理から諸大名との外交まで複雑な要素が絡み合う難しい戦いであったが、信盛はこれを10年近くにわたって担った。
天正8年(1580年)、信長は突如として信盛・嫡男の佐久間信栄に対し、19か条からなる「折檻状」を送りつけた。その内容は、10年の封鎖にもかかわらず本願寺を攻め落とせなかったこと、戦略的な積極性がないこと、有能な家臣を獲得していないこと等を詳細に列挙し、家臣としての無能を徹底的に糾弾するものであった。信盛父子は即座に追放され、高野山へ身を引いた。翌年に信長が本能寺の変で死去したため、信盛は許されないまま天正10年(1582年)に高野山で没した。享年55歳。
日本刀との関わりにおいて、信盛は尾張の名門武士の家系として剣術の素養を持っていた。長年の本願寺戦では、包囲戦という性質上、刀よりも大軍の運用・補給・外交が重視されたが、信盛自身は武士として常に刀を帯び、武士道の体現者であり続けた。信長から叱責を受けてもなお高野山で武士としての矜持を保ちながら余生を送った信盛の姿は、戦国武士の哀愁を象徴している。織田家の重臣として多くの名刀の贈答に関わったとされ、尾張の刀鍛冶との繋がりも深かった。
所持した刀剣
- 尾張の名刀鍛冶より調達した実戦刀
- 織田家重臣として信長より賜った贈刀