※画像はイメージです。六角義賢
Rokkaku Yoshikata
南近江の守護大名・観音寺城主・承禎
解説
生涯と出自
六角義賢(ろっかく よしかた)は大永元年(1521年)、近江国守護・六角定頼の嫡男として生まれた。六角氏は足利将軍家の一門にして近江守護の名家であり、義賢は天文21年(1552年)に父の死去により家督を継いで六角氏の第15代当主となった。第12代将軍・足利義晴より偏諱を賜って「義賢」と名乗り、その後「承禎(じょうてい)」と号した。
六角氏の全盛と転機
義賢が家督を継いだ当初、六角氏は南近江を中心に近江・伊賀にまで影響を持つ有力大名であった。義賢は将軍・足利義輝を支援し、三好長慶と対立する畿内の政治に深く関与した。しかし永禄3年(1560年)の野良田の戦いで浅井長政に大敗したことが転機となった。この敗北を契機に浅井氏は六角氏からの自立傾向を強め、かつての従属関係は逆転してしまった。
家中法度と六角氏式目
義賢が残した重要な遺産のひとつが、永禄10年(1567年)に制定した「六角氏式目」(かなめいし)である。これは六角氏の家中法度(分国法)であり、家臣の権利保護・訴訟制度・所領問題などを成文化したもので、戦国大名の法律文書として歴史的に高く評価されている。家臣団による条文策定への参加が認められた点は、戦国大名の家中秩序のあり方として注目される。
信長包囲網と抵抗
永禄11年(1568年)9月、足利義昭を擁した織田信長が京へ上洛する際、義賢と嫡男・義治は観音寺城を棄てて甲賀郡へ逃走した。信長との軍事衝突を避けたこの撤退は六角氏の戦国大名としての地位を事実上終わらせた。その後も義賢は信長包囲網の一員として元亀元年(1570年)から天正元年(1573年)にかけて各地でゲリラ的抵抗を続けたが、朝倉・浅井氏の滅亡により孤立した。
晩年と文化活動
その後、義賢は豊臣秀吉に降り、御伽衆として仕えた。弓術・馬術の名手として知られており、息子の義治も豊臣秀頼の弓術師範として仕えたことから、六角家の文武双方の伝統が続いた。天下人となった秀吉の没前年の慶長3年(1598年)に78歳で没した。
後世の評価
六角義賢は、戦国大名として軍事的に後退しながらも、「六角氏式目」という先進的な分国法を制定した統治者として歴史上に名を残している。また晩年の長寿と御伽衆としての生涯は、戦国の激流を生き抜いた大名の一側面を示している。
所持した刀剣
- 近江伝の太刀(六角氏守護大名家伝来)