※画像はイメージです。小山田信茂
Oyamada Nobushige
武田二十四将に数えられる郡内の国衆——勝頼を見限ったと伝わる最期
解説
小山田信茂(おやまだ のぶしげ)は、甲斐東部の郡内地方を治めた国衆・小山田氏の当主で、武田氏の譜代家老衆である。生年は天文8年(1539年)または天文9年とする説があり確定していない。没年は天正10年3月24日(1582年4月16日)。武田二十四将の一人に数えられる。
生涯
永禄8年(1565年)ごろ、兄の死去により小山田氏の家督を継いだ。主君は武田信玄、のちに勝頼である。
主な戦歴
信玄期には駿河侵攻に参加したとされ、三方ヶ原の戦いにも加わったとされる。勝頼期には長篠の戦い(1575年)に参陣し、1578年からの御館の乱では上杉方との取次を担当した。
武田氏滅亡と最期
天正10年(1582年)3月、織田軍の侵攻で新府城を放棄した勝頼一行は、郡内の信茂を頼って岩殿城へ向かおうとした。しかし信茂は郡内への道を封鎖し、勝頼らに鉄砲を向けたとされる。勝頼は田野で滝川一益の軍と戦って自刃し、武田宗家は滅亡した。信茂は甲斐善光寺で織田信忠の命により処刑されたと記録され、嫡男や老母、妻、娘も同時に処刑されたとされる。ただし『信長公記』の記述は日付などが他史料と異なる。
逸話と伝承
岩殿山城の断崖には、信茂の次男と赤子にまつわる「稚児落とし」の伝承が残る。また、処刑を免れて生き延びたとする伝承もあり、東京都あきる野市には「鎧塚」と呼ばれる墓碑がある。三方ヶ原で投石隊を率いたという俗説は、史料的根拠が乏しいとされる。
後世評価
鉄道唱歌では主君を裏切った人物として厳しく詠まれた。一方で、離反の動機は明確でなく、史料ごとに経緯が異なるため、記述の信頼性には慎重な検討が必要とされている。