※画像はイメージです。大内政弘
Ouchi Masahiro
応仁の乱で西軍を支えた周防の大名、文化を愛した大内氏当主
解説
大内政弘(おおうち まさひろ)は、室町時代中期から後期の大名で、周防・長門・豊前・筑前の守護を務めた大内氏の当主である。文安3年(1446年)に生まれ、明応4年(1495年)9月に50歳で没したとされる。応仁の乱で西軍の主力として約10年にわたり畿内で戦い、一方で和歌・連歌を愛した文化人としても知られる。
家督相続
父は大内教弘。寛正6年(1465年)に父が死去すると20歳で家督を継ぎ、周防・長門・豊前・筑前の守護職も引き継いだ。康正3年(1457年)から寛正4年(1463年)までは、幕府の措置によって幼名の亀童丸のまま当主に立てられていたとする研究もある。
応仁の乱
応仁元年(1467年)、西軍の山名宗全に加勢して上洛し、約10年間にわたり畿内各地で戦った。文明元年(1469年)には叔父の大内教幸が反乱を起こしたが、重臣の陶弘護らの働きで鎮圧された。文明8年(1476年)に東西の和睦を受け入れ、翌文明9年(1477年)に乱が収束すると、同年末に本拠の山口へ帰国した。
再上洛と晩年
文明12年(1480年)には相伴衆となった。長享・延徳の乱や六角高頼の討伐には、自らは出陣せず家臣や嫡子の義興を参陣させている。明応3年(1494年)に中風が悪化したため義興に家督を譲って隠居し、翌年に没した。
内政と家法
文明14年(1482年)に陶弘護が殺害されたのち、家中の掌握を進め、政庁機構の再編と権力の強化に取り組んだ。この過程で作られた大内家壁書は、その政策の集大成とみられている。
文化と日明貿易
和歌・連歌を好み、一条兼良、宗祇、三条西実隆らと交流した。歌集『拾塵和歌集』を編み、准勅撰連歌集『新撰菟玖波集』も後援している。雪舟を山口に招いたとされ、常栄寺庭園は雪舟の作と伝えられる。法華経28巻などを刊行する大内版の出版事業も進めた。日明貿易では博多商人と組んで遣明船を派遣し、堺商人と組んだ細川氏と競い合い、その利益は軍費などに充てられた。