※画像はイメージです。阿南姫
Onami-hime
須賀川城を守った女城主
解説
阿南姫(おなみひめ、1541-1602)は出羽米沢城主・伊達晴宗の娘として生まれた。伊達政宗の父・輝宗の姉にあたり、政宗にとっては伯母である。陸奥須賀川城主・二階堂盛義の正室として嫁ぎ、永禄4年(1561年)に嫡男・平四郎(後の二階堂行親)を産んだ。夫・盛義の死後は、幼い当主を後見する形で須賀川領の実権を握り、事実上の女城主として二階堂家を統治したと伝わる。二階堂氏は会津の蘆名氏と米沢の伊達氏という二大勢力の間に挟まれた中規模の国衆であり、婚姻政策や外交によって独立を保ってきた家であった。阿南姫の統治期もその危うい均衡の延長線上にあり、彼女自身がその外交の要でもあったと考えられている。
天正17年(1589年)、摺上原の戦いで蘆名氏を滅ぼした伊達政宗は、その勢いのまま甥筋にあたる二階堂領・須賀川城への侵攻を開始した。政宗は血縁を理由に度々和睦・開城を呼びかけたとされるが、阿南姫はこれを拒み抗戦を続けたと伝えられる。周辺の国衆の多くが政宗に降る中、須賀川一城のみが最後まで抵抗を続けた形となった。最終的に須賀川城は家臣団の内応もあって落城し、二階堂家は事実上滅亡した。ただし、和睦交渉での具体的なやり取りや、政宗の呼びかけを毅然と拒んだとされる姫自身の言葉として語られる逸話の多くは、江戸期以降にまとめられた軍記・地誌や地域伝承に基づくものであり、同時代史料による裏付けは乏しい点に注意が必要である。
落城後、阿南姫は甥にあたる岩城常隆や佐竹義宣のもとに身を寄せて庇護を受け、出家して大乗院と号したという。慶長7年(1602年)に62歳で病没し、須賀川の長禄寺に葬られたと伝わる。自ら薙刀や太刀を取って戦場に立ったことを直接示す史料はなく、その戦いぶりは武勇伝というより統治者としての抵抗として語られる。しかし夫の死後、長年にわたり所領統治の実権を握り、当代随一の大名であった甥の圧力に最後まで屈しなかった人物として、東北の戦国史に伝わる数少ない女城主の実例の一人に数えられている。