※画像はイメージです。楠木正儀
Kusunoki Masanori
南北朝・楠木氏棟梁・南朝総大将
解説
生涯と出自
楠木正儀(くすのき まさのり)は南北朝時代の武将で、後醍醐天皇の忠臣として湊川の戦いに散った楠木正成の三男である。1330年代初頭に生まれたとされる。建武3年(1336年)、父・正成が湊川の戦いで足利尊氏の軍に敗れて自決。さらに正平3年(1348年)の四條畷の戦いで兄・正行と正時が戦死すると、正儀は若くして楠木氏の棟梁と南朝総大将の重責を担うこととなった。
南朝総大将としての京都攻防戦
正儀は河内・和泉・摂津の三か国を基盤に南朝軍を率い、北朝方の足利幕府と繰り返し戦った。特筆すべきは京都奪還作戦であり、正平7年(1352年)の第一次に始まり、正平16年(1361年)の第四次まで、計四度にわたって京都への侵攻を果たした。正平16年の攻勢では後村上天皇を一時京都に迎えるほどの成果を上げた。槍を主体とした新たな戦術を取り入れた指揮官としても知られる。
和平派としての活動と正平の一統
正儀は軍事行動と並行して南北両朝の和平を精力的に模索した。観応の擾乱では足利直義方と連携し、一時的な南北朝合一である「正平の一統」(正平6年・1351年)の実現に貢献した。しかしこの統一は翌年に北朝側によって破棄され、戦乱は再燃した。後村上天皇からの信頼は厚く、通常は側近の公家しか務めない綸旨の奉者の任を武家ながら賜るほどであった。
北朝への降伏とその背景
長慶天皇の即位後、宮廷内での主流派との政治的対立が深まった正儀は、正平24年(1369年)に幕府方に降伏した。この「裏切り」は戦前の教育においては批判の的となったが、近年の研究では南朝内部の和平派として一貫した信念に基づく行動であったと再評価されている。幕府では管領・細川頼之に重用され、河内・和泉・摂津の守護に任じられた。
南朝への帰参と晩年
細川頼之が失脚すると、正儀は再び南朝に帰参し、参議に叙せられた。南北朝合一(明徳3年・1392年)の下地を作った和平工作の担い手の一人として、現代では高く評価されている。没年は1388年から1389年頃とされる。
後世の評価
江戸時代には父・正成と兄・正行の忠烈に比して低い評価を受け、「楠木三代」の中でも語られることが少なかった。しかし昭和後期以降の南北朝研究の深化により、南朝を最後まで支えた戦略家・外交官として正当な評価が定まりつつある。父・正成、兄・正行と並び、楠木三代の一角として再び注目を集めている。
所持した刀剣
- 太刀(楠木氏伝来)