※画像はイメージです。戦国時代1533-1592
石川数正
Ishikawa Kazumasa
家康股肱の重臣、出奔して秀吉に走った岡崎城代
解説
生涯
天文二年(一五三三年)、三河国に生まれた石川数正は、清和源氏の流れを汲む石川氏の一族で、父は石川康正。今川義元のもとで人質生活を送っていた少年時代の徳川家康に近侍として仕え、以後、酒井忠次と並ぶ徳川家の両輪として数々の合戦で武功を重ねた。永禄五年(一五六二年)の清洲同盟成立にも尽力し、家康の対織田外交を支えた人物として知られる。
岡崎城代としての重責
天正七年(一五七九年)、家康の嫡男・松平信康の後見人を務めていた数正は、信康切腹という徳川家にとって最も痛ましい事件の後、岡崎城代という重職に就いた。徳川家中で最も機密性の高い立場を任された事実は、家康からの信頼の厚さを物語っている。
出奔という決断
天正十三年(一五八五年)十一月、岡崎城代であった数正は突如として家康のもとを離れ、豊臣秀吉のもとへ出奔するという徳川家中を震撼させる事件を起こした。その理由は今なお定かでなく、秀吉方の軍事力を見限ったとする説や秀吉から直接勧誘を受けたとする説など諸説が並立し、戦国史屈指の謎として語り継がれている。
松本藩主としての晩年
出奔後の数正は秀吉から信濃松本十万石を与えられ、松本藩の初代藩主となった。近世城郭としての松本城の築城と城下町の整備に尽力し、その事績は現在も国宝松本城として残る。文禄元年(一五九二年)または翌文禄二年に没した。
後世評価
徳川家康の最側近でありながら敵方に転じた数正の生涯は、戦国武将の忠誠と保身の狭間を象徴する逸話として、後世の歴史小説や大河ドラマでも繰り返し取り上げられている。