※画像はイメージです。別所波
Bessho Nami
三木合戦で「鬼神」と呼ばれた別所吉親の妻
解説
別所波(べっしょ なみ)は、播磨三木城主・別所長治の叔父にあたる別所吉親(よしちか)の妻である。長治の後見役・家老として城の防衛の中枢を担った吉親の妻として、三木合戦(天正6~8年、1578~1580年)に関わったと伝わる人物であり、しばしば城主・長治本人の正室と混同されるが、長治自身の正室は照子という別人とされ、両者は明確に区別する必要がある。この混同は、後世の読み物や俗説において別所家の女性たちの逸話がひとまとめに語られてきたことに起因すると考えられる。波の出自については畠山氏の娘とする説があるが、確定していない(なお、長治の妻・照子の出自については波多野氏の娘とする説など別の伝承があり、波の出自とは別に扱う必要がある)。
三木合戦は羽柴(豊臣)秀吉による兵糧攻め「三木の干殺し」として知られ、天正6年(1578年)から約2年にわたり城が包囲され、城内では次第に食糧が枯渇していったとされる。後世に増補・改訂された『別所記』系統の記録には、波の勇戦ぶりを伝える逸話が残る。天正6年4月には、二尺七寸(約82センチメートル)の太刀を手に騎馬で敵陣へ突入し、複数の敵兵を斬り伏せたとされる。また、乞食に姿を変えて敵の包囲網を抜け、後詰めの部隊に連絡を取り次いだという使者役の逸話も伝わる。天正8年(1580年)1月の攻防では、櫓の上から弓矢を放って寄せ手の兵二十余人を射倒し、さらに自ら騎馬で打って出て奮戦したとも伝わる。こうした働きぶりから、秀吉が波を「鬼神のような女」と評したという逸話も残されている。ただし、これらの具体的な戦闘描写は、同時代性の高い『信長公記』や『別所長治記』には見られず、後世に脚色が加えられた『別所記』の系統にのみ現れるものであり、史実というより軍記物由来の伝承として扱うのが妥当である。
天正8年正月、兵糧が尽きた別所方はついに開城を決断し、長治をはじめ一族の多くが自害した。波もこのとき、2男1女とされる我が子を自らの手にかけたのち、自害したと伝わる。実名の正確さや生年は定かでないが、落城に殉じた別所一族の女性の一人として、播磨の戦国史に記憶されている。
所持した刀剣
- 太刀(二尺七寸。三木合戦で騎馬のまま敵陣に斬り込んだ際に用いたと伝わる、後世増補の軍記に記される逸話)
- 弓矢(三木城籠城戦で櫓上から寄せ手を射倒したと伝わる)