※画像はイメージです。甘粕景持
Amakasu Kagemochi
川中島で殿軍を務めた上杉四天王の一人
解説
生涯と出自
甘粕景持(あまかす かげもち)は享禄2年(1529年)、越後国飯塚の桝形城主の家系に生まれたと伝わる。河内源氏義国流新田氏の流れを汲むとされる家柄で、上杉謙信の家臣として複数の城の統治を任された重臣である。
川中島の戦いでの活躍
景持の武名を決定づけたのが永禄4年(1561年)の第四次川中島の戦いである。山本勘助が立案した「啄木鳥戦法」を見破ったとされる上杉軍において、景持は千曲川を渡った上杉本隊とは別に千余の兵を率いて武田別働隊の来襲に備えた。合戦当日の9月10日朝、少数の兵で八幡原へ急ぐ武田別働隊1万2000を阻む働きを見せ、半月形の大長刀を振るって武田勢を圧倒したと伝わる。『甲陽軍鑑』には、寡兵の甘粕隊を謙信本隊と見誤る武田方の者が続出したと記され、その奮戦ぶりが強調されている。
殿軍としての功績
合戦終盤、上杉軍が撤退する際には直江山城守(実綱)とともに殿(しんがり)を務め、全軍が犀川を渡り終えるまで市村に陣を敷いて後詰めにあたった。この撤退戦での働きにより、謙信から金の鎌の立物を拝領したとの逸話も伝わっている。
御館の乱以後
天正6年(1578年)に謙信が没すると、跡目をめぐる御館の乱では上杉景勝方に与して勝利に貢献した。天正10年(1582年)には三条城将となり、恩賞を巡って景勝に反旗を翻した新発田重家討伐の前衛を担うなど、景勝政権下でも軍事の要として活躍を続けた。
晩年
慶長3年(1598年)、徳川家康に屈した景勝の会津・米沢移封に従い、最終的な知行は1100石であったと伝わる。慶長9年6月26日(1604年7月22日)、76歳で没した。
刀剣との関わり
上杉家に伝わる武具の中には「甘粕近江守長重(景持)腰差」として上杉博物館に収蔵される品があり、川中島の戦いを戦い抜いた景持の武具の実物として今日に伝えられている。
後世の評価
上杉四天王の一人に数えられる甘粕景持は、川中島の戦いにおける殿軍としての功績から、寡兵をもって大軍を欺いた知略と胆力を兼ね備えた武将として高く評価されている。