※画像はイメージです。信国吉貞
Nobukuni Yoshisada
解説
信国吉貞と筑前信国派の成立
信国吉貞(のぶくによしさだ)は、山城(京都)の信国派第十二代として知られ、慶長7年(1602年)に豊前(ぶぜん)から筑前(ちくぜん)へ移住して筑前信国派(ちくぜんのぶくには)を開いた刀工である。天正10年(1582年)に仕えていた安心院(あじむ)氏が大友氏に滅ぼされて浪人となり、天正15年(1587年)に黒田孝高が豊前六郡の領主となると黒田家に仕えた。文禄元年(1592年)の文禄の役にも黒田長政に従って出陣し、慶長7年(1602年)に子の吉政(よしまさ)らとともに筑前へ移住した。没年は寛永17年(1640年)9月1日と伝わる。
信国派(のぶくには)の始祖は南北朝時代の山城の刀工で、来派の了戒(りょうかい)の孫で久信(ひさのぶ)の子と伝わる信国(初代)とされる。その後、信国派は代々山城および九州各地で継承され、吉貞は第十二代としてその系譜を豊前から筑前へと引き継いだ。吉貞は「信國初ノ系圖代々祖子付之事」と称される家系記録を残しており、信国派の歴史研究に欠かせない一次資料となっている。
筑前での活動と黒田藩との関係
関ヶ原の戦い(1600年)後、筑前五十二万石を領した黒田長政は優秀な職人・技術者を積極的に招聘した。吉貞も長政に召されて筑前に移り、子の吉政らとともに筑前で作刀活動を開始した。
筑前信国派の作風は、山城信国派の技術を基盤としながら、黒田武士の好みに合わせた力強く重厚な刀を特徴とする。金筋(きんすじ)が頻りに交じる刃文、沸の盛んな刃縁、そして無骨で重量感のある作風が典型的な特徴として知られる。
評価と筑前信国派の展開
吉貞の筑前移住は、信国派という由緒ある刀工一族が九州に新たな根を下ろした画期的な出来事であった。その後、筑前信国派は吉貞の子の吉政・吉次(よしつぐ)・吉助(よしすけ)の三家に分かれ、吉次の孫の重包(しげかね)らを輩出して、江戸時代を通じて黒田藩の御用刀工として活躍した。福岡市博物館では「筑前の刀工 信国」と題した企画展示を開催するなど、吉貞以降の筑前信国の系譜は現代においても高い関心を集めている。
代表作
- 信国初代系図「信國初ノ系圖代々祖子付之事」