※画像はイメージです。児手柏包永
Kodetegashiwa Kanenaga
別名: 児手柏・こどてがしわかねなが
解説
概要——表裏で貌を変える一口
児手柏包永(こどてがしわかねなが)は、鎌倉時代の大和国手掻派(てがいは)の刀工・包永による一口である。細川幽斎の手から徳川家康へ渡り、以後水戸徳川家に伝来した。刃文が佩き表と佩き裏でまったく異なるという際立った特徴を持ち、その性質がそのまま「児手柏」という号の由来となっている。刀種の分類は資料によって分かれ、文化遺産オンラインでは小太刀、徳川ミュージアムでは太刀としている。
作風——一口に二つの刃文
本刀最大の見どころは、佩き表が乱れ刃、佩き裏が直刃という、一口の中で表裏の刃文が異なる点にある。日本刀の刃文は通常、表裏でおおむね同じ調子に焼かれるため、この「両面」性は他に類を見ない個性として古来注目されてきた。作者の包永が属した手掻派は、奈良・東大寺の転害門(てがいもん)付近を拠点とした大和伝五派のひとつで、大和物らしい地鉄の強さを身上とする一派である。
銘
茎(なかご)の佩き表先には、元銘である「包永」の二字が残る。これに加えて細川幽斎による添え銘「兵部大輔藤孝磨上之 天正二年三月十三日」が切られており、天正二年(1574年)三月十三日に幽斎が本刀を磨上げ(すりあげ)たことを伝えている。作者の銘と、後世の所有者が自ら手を加えた記録とが一口の茎に併存する点で、伝来を読み解く手がかりの豊富な作である。
伝来——細川幽斎から水戸徳川家へ
細川幽斎の所持を離れた後、本刀は徳川家康の所有するところとなった。家康はこれを十一男の徳川頼房に伝え、頼房が水戸徳川家の祖となったことで、以後本刀は水戸徳川家の重宝として代々受け継がれることになる。現在は水戸徳川家第十五代当主・德川斉正の個人所蔵品である。
関東大震災と現存
大正十二年(1923年)九月一日の関東大震災に際し、本刀は本所新小梅町の水戸徳川家邸で被災した。以後長らく焼失したものと考えられてきたが、実際には焼身(しょうしん)となりながらも水戸徳川家が保管を続けており、平成二十七年(2015年)にその現存が確認された。現在は徳川ミュージアム(茨城県水戸市)に保存されている。
逸話・伝説
号「児手柏」の由来
「児手柏」の号は細川幽斎の命名と伝えられる。佩き表が乱れ刃、裏が直刃という、一口で二つの表情を見せる本刀の作風を、『万葉集』の「奈良山の 児手柏の 両面(ふたおも)に」の歌になぞらえたものである。児手柏(コノテガシワ)は葉が表裏の区別なく立つ樹で、古来「両面」——ふたつの面を持つこと——の比喩として詠まれてきた。刀剣の号は所持者名や逸話に由来するものが多いなかで、本刀は作風そのものを典拠とし、しかもそれを古歌に託して名づけられた点で異色である。歌人としても知られた幽斎らしい命名といえる。
焼身となってなお伝わるもの
関東大震災による被災で、本刀は焼身——火を受けて刃文や地鉄の働きを損なった状態——となった。焼身の刀は美術品としての評価を大きく損なうため、失われたものとして扱われることも少なくない。本刀もまた長く焼失したと考えられてきたが、水戸徳川家はこれを手放すことなく保管し続け、2015年にその現存が確認された。徳川家康以来の伝来と、幽斎が自ら切らせた添え銘とを刻んだまま今日に伝わる本刀は、刃文の美しさとは別の水準で、刀が何を背負って伝えられるのかを示す一口である。