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慶長2年12月22日〜慶長3年1月4日(旧暦。西暦1598年1月29日〜2月9日)
朝鮮・蔚山(蔚山倭城)
勢力
日本軍
明・朝鮮軍
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慶長2年12月22日から慶長3年1月4日(旧暦。グレゴリオ暦で1598年1月29日から2月9日)にかけて、朝鮮の蔚山で、明・朝鮮軍が築城中の日本側の城を包囲し、加藤清正らがこれを守り抜いた。結果は日本軍の勝利である。明・朝鮮軍は慶州方面へ撤退し、日本軍はおよそ30里を追撃した。
明・朝鮮側は、明の楊鎬と麻貴、朝鮮の権慄が指揮した。兵力は合わせて約57,000で、内訳は明軍44,800、朝鮮軍12,500とされる。
日本側で籠城の中心となったのは加藤清正で、城内には浅野幸長と太田一吉もいた。救援には毛利秀元、吉川広家、立花宗茂、黒田長政、蜂須賀家政らが向かった。兵力は籠城が約1万、救援が約1万3千とされるが、これらは史料により争いがある。
城はまだ完成しておらず、城外には日本軍の仮小屋があった。まず明軍先鋒の騎兵がこの仮小屋を急襲して焼いた。清正は西生浦から船で城へ戻って指揮を執った。
12月23日には外郭が破られたが、日本軍は本丸で持ちこたえた。12月24日から29日にかけての攻撃は退けられている。
籠城が続くなか、城内は兵糧と水が極度に不足した。12月29日、攻め手は降伏を勧める使者を送ってきた。清正は捕虜交換などの交渉に応じる姿勢を見せ、これによって時間を稼いだ。
その間に日本の援軍は、12月26日から1月2日にかけて西生浦に集結した。
1月3日の夜、楊鎬と麻貴は最後の総攻撃をかけたが、失敗した。翌4日、明・朝鮮軍は慶州方面へ撤退を始め、日本軍は約30里にわたって追撃した。
損害は、明軍が約2千、朝鮮軍が3千から4千とされるが、数字には食い違いがある。戦後に日本側が数えた敵兵の遺棄死体は1万386とされる。
戦後、楊鎬は罷免された。豊臣秀吉は、軍目付の報告をもとに蜂須賀家政らを処罰したが、この処分は秀吉の死後の慶長4年(1599年)に撤回された。
慶長3年9月下旬から10月上旬には、同じく蔚山で第二次蔚山城の戦いが起きている。こちらも清正が籠城して守り切り、11月18日に撤退して城に火をかけた。本稿で扱ったのは、慶長2年末から慶長3年初めにかけての戦い(第一次)である。