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明治6年(1873年)10月14日〜25日
東京(太政官・岩倉具視邸ほか)
勢力
使節派遣を主張した参議
内治優先・派遣延期を主張した側
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明治六年の政変は、明治6年(1873年)、朝鮮への使節派遣をめぐって政府の内部が割れ、10月に閣議が決裂した結果、西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎・江藤新平・副島種臣の5人の参議が辞職して政府を去った事件である。「征韓論政変」とも呼ばれる。派遣を主張した側が敗れ、内治を優先する大久保利通らを中心に政府が再編されたことで、その後の士族反乱や自由民権運動、日本の対朝鮮外交にまで影響が及んだ。
日本は明治6年(1873年)1月1日から太陽暦を用いており、同年の月日は現在と同じ暦による。
明治政府は朝鮮に国書を送ったが、国書に「勅」「皇」の字があったため、朝鮮側は受け取りを拒んだ。のちに「天子」の字を含む国書が送られたことで、日朝の国交は断絶状態になった。この問題は、明治政府にとって未解決の課題であり続けた。
明治4年(1871年)11月(旧暦)、岩倉使節団が日本を出発した。残って政府を運営する留守政府は、大規模な内政改革を控えるという約束をしていたが、実際には各省が改革を進めた。出発前の11月9日の会議では、板垣退助が朝鮮への使節派遣を主張したものの、朝鮮問題には手を付けないことで合意している。同じ明治4年11月には宮古島の島民が遭難する事件があり、これを機に台湾征討論が高まった。大蔵省の井上馨らが内治優先を主張して出兵は見送られ、副島種臣が清へ派遣された。
明治6年(1873年)1月19日、木戸孝允と大久保利通に早期帰国の命令が出された。4月19日には江藤新平、大木喬任、後藤象二郎が参議になった。いずれも大蔵省に対抗する立場の人物であり、井上馨は参議になれず、大蔵省を辞任している。5月29日に大久保が帰国したが、政府への復帰は見送った。
5月31日、釜山の広津弘信から、朝鮮側の布告に日本への無礼な文字があったとの報告が届いた。板垣は、派兵してから使節を送ることを主張する。西郷隆盛は派兵に反対し、自らが使節として赴くことを主張した。太政大臣の三条実美は兵を同行させることを求めたが、西郷は拒否した。結論は、副島の帰国を待って決める方針になった。7月23日には木戸が帰国したが、政府への復帰はボイコットした。
8月16日、西郷は三条を訪ねて遣使の承認を強く求めた。8月17日の閣議で西郷の遣使が決まったが、詳細は未定であった。明治天皇は、岩倉の帰国を待って熟議するよう答えている。
9月13日に岩倉具視が帰国し、木戸と大久保の復帰に向けて動いた。岩倉は内治優先の立場から、遣使は即時には行うべきではないと主張した。10月12日には大久保と副島が参議に復帰したが、木戸は閣議への復帰を拒んだ。
10月14日から15日にかけての閣議で、岩倉は遣使の延期を主張した。これに対して、板垣、江藤、後藤、副島らは西郷を支持し、即時派遣を求めた。三条は西郷の派遣そのものは認めたものの、期日は定めなかった。
10月17日、岩倉が辞意を示す書簡を三条に送り、大久保と木戸も辞表を出したため、閣議は開かれなくなった。10月18日には三条が病に倒れ、19日には副島・江藤・後藤・大木の4人が、岩倉を太政大臣摂行にするよう求めた。
10月20日、大久保が立てた策により、明治天皇が三条邸を見舞ったのち岩倉邸へ行幸し、岩倉の太政大臣摂行への就任が実現した。22日には西郷、板垣、副島、江藤の4参議が岩倉邸を訪ね、直ちに派遣を発令するよう求めたが、岩倉は応じなかった。
10月23日、西郷は辞表を提出し、帰郷の途についた。岩倉は天皇に経緯を奏上し、天皇は翌日に回答すると答えた。10月24日、天皇は遣使の延期を決めた。西郷の辞表は参議と近衛都督については受理されたが、陸軍大将の辞職は却下された。
板垣、江藤、後藤、副島の辞表は10月24日に提出され、25日に受理された。この結果、使節派遣を主張した5人の参議が政府を去ることになった。さらに、軍人・官僚およそ600名が辞職したとされる。西郷派の士官は約100名、土佐出身者は約40名で、特に近衛の将兵が大量に離脱し、近衛は事実上解体されたという。
10月25日、寺島宗則、伊藤博文、勝安芳が参議となり、大木喬任は司法卿を兼ねた。木戸は大蔵卿の兼任を病気を理由に断った。三条は12月に太政大臣に復帰している。大久保は内務省を設置して内務卿となり、権力を強めた。伊藤博文は木戸から離れて大久保に接近した。
1874年には、台湾出兵に反対した木戸が政府を去った。1875年の大阪会議で木戸と板垣の参議復帰が合意されたが、まもなく決裂している。大久保主導の体制は、1878年の紀尾井坂の変まで続いた。
下野した人々のその後も、政変の影響を物語る。西郷と江藤は、のちに士族反乱を起こした。江藤が起こしたのは、明治7年(1874年)の佐賀の乱である。一方、板垣は自由民権運動に加わり、政府の敵対者になった。
この政変の結果、政府の権力は、使節派遣の延期を決めた岩倉具視や大久保利通らの側に集まる形となった。派遣を求めて職を辞した人々が、士族反乱と自由民権運動という二つの方向へ進んだことは、前述のとおりである。
朝鮮問題は、政変で消えたわけではなかった。1874年9月の「九月協定」による交渉は、1875年6月に決裂し、その直後に江華島事件が起こって、日朝修好条規の締結につながった。派遣論が退けられたのちも、朝鮮との関係は政府の課題であり続けたことになる。
ここまでの内容を、主な日付だけ並べておく。いずれも明治6年(1873年)のことである。
- 1月19日:木戸孝允と大久保利通に早期帰国の命令。 - 4月19日:江藤新平、大木喬任、後藤象二郎が参議になる。 - 5月31日:釜山から朝鮮側の布告についての報告が届く。 - 8月17日:閣議で西郷の遣使が決まる。ただし詳細は未定。 - 9月13日:岩倉具視が帰国。 - 10月14日〜15日:遣使の即時派遣か延期かをめぐって閣議が対立。 - 10月20日:岩倉が太政大臣摂行に就く。 - 10月23日:西郷が辞表を提出し、帰郷。 - 10月24日:天皇が派遣延期を決定。 - 10月25日:板垣、江藤、後藤、副島の辞表が受理される。
こうして並べると、岩倉の帰国から西郷らの辞職までが、およそ6週間という短い期間に集中していたことが分かる。