※画像はイメージです。幕末〜明治初期1834-1874
江藤新平
Etō Shinpei
初代司法卿として近代司法制度を築き、佐賀の乱に散った佐賀藩士
解説
江藤新平(えとう しんぺい)は、幕末から明治初期の佐賀藩士、政治家である。天保5年(1834年)に肥前国佐賀郡八戸村(現・佐賀市)で生まれ、明治7年(1874年)4月13日に40歳で没した。佐賀藩の下級藩士(手明鎗)の子で、家は千葉氏の流れを称した。嘉永2年(1849年)から藩校・弘道館で学んだ。
維新期の歩み
明治元年(1868年)には東征大総督府の軍監となり、徴士にも任じられた。佐賀藩権大参事を経て、明治4年(1871年)に文部大輔、左院副議長をつとめた。
初代司法卿
明治5年(1872年)に初代司法卿に就任し、司法制度の改革を主導した。司法を行政から分離して全国に裁判所を整備し、検事・弁護士の制度を導入した。フランス人法学者ボアソナードを法律顧問に招き、明治6年(1873年)には司法省で『民法仮法則』をまとめている。四民平等や教育・警察制度の整備も進めた。同年に参議となった。
下野と佐賀の乱
明治6年の征韓論争と政変で参議を辞職した。のち愛国公党の結成に加わり、明治7年(1874年)の民撰議院設立建白書に連署した。同年、佐賀の乱を率いたが敗れ、高知県で捕らえられた。佐賀の特設裁判所で裁かれ、士族の身分を奪われたうえで斬首された。
逸話
明治5年に自らが導入した写真入りの手配書制度では、のちに逮捕された際に最初の対象者となった。
後世評価
大正5年(1916年)に贈正四位を受けた。