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明治29年(1896年)、今村長賀が読売新聞紙上で提唱し、以後数年にわたり紙上論争が継続
東京(読売新聞紙上での論争として展開し、以後日本の刀剣界全体に波及)
勢力
今村長賀(正宗抹殺論を提唱した刀剣鑑識家)
刀剣界(反論側)
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今村長賀は、明治期を代表する刀剣鑑識家の一人であり、旧宮内省において刀剣の管理・鑑定にあたる「御剣掛」を務めた人物として知られる。武家社会が終焉を迎えた明治維新後、多くの大名家・武家に伝来していた刀剣類は散逸の危機に瀕しており、宮内省をはじめとする公的機関や刀剣愛好家たちは、こうした名刀の来歴や真贋を見極める鑑定の重要性を強く意識するようになっていた。今村長賀は、こうした時代背景のもとで刀剣鑑定の第一線に立った人物であり、その発言は当時の刀剣界において相応の重みを持つものであった。
日本刀の鑑定においては、室町時代以来、本阿弥家が将軍家・大名家の御用鑑定家としての地位を確立し、刀剣に対する権威ある折紙(鑑定書)を発行する伝統を築いてきた。正宗は、鎌倉時代末期から南北朝期にかけて活躍したと伝わる相州伝の刀工で、本阿弥家の鑑定体系の中でも最高位に位置づけられる「天下三作」の一人として、古来最も著名な名工の一人に数えられてきた存在であった。
明治29年(1896年)、今村長賀は読売新聞紙上の談話記事において、「正宗という刀工は実在しなかった、あるいは実在したとしても後世言われるほどの名工ではなかった」とする、いわゆる「正宗抹殺論」を提唱した。この主張は、長らく刀剣界の頂点に位置づけられてきた正宗の存在そのものを否定するものであり、当時の刀剣愛好家・研究者に大きな衝撃を与えた。
今村長賀が正宗抹殺論の根拠として掲げた論点は、主として以下の点に整理される。第一に、古来、正宗の作とされる刀剣の中に、在銘かつ正真と確実に認められるものが見当たらないこと。もし在銘の正宗作が存在するとすれば、それは後世の偽造・仮託の産物ではないかという疑念を今村は提示した。第二に、正宗が「名工」として喧伝されるようになったのは、豊臣秀吉の時代(桃山時代)以降のことであり、それ以前の文献には正宗を名工として記載するものが見当たらないという指摘である。今村はとりわけ、室町幕府三代将軍・足利義満の時代に選定されたと伝わる名工リストに正宗の名が含まれていない点を重視した。
今村長賀はさらに踏み込んで、正宗という名工像そのものが、豊臣秀吉の政略的な意図のもとで本阿弥家によって作り上げられた、いわば「創作」の産物ではないかとする見方を示した。秀吉は天下統一の過程で諸大名への恩賞・贈答品として刀剣を重用しており、その際に本阿弥家の鑑定による権威づけが、贈答用の名刀の価値を高める役割を果たしていたと考えられる。今村は、こうした政治的必要性が、正宗という架空、あるいは実像以上に誇張された名工像の形成を促したのではないかと論じたのである。
今村長賀のこの大胆な主張は、当然ながら刀剣界に強い反発を呼び起こした。本阿弥家の鑑定伝統を支持する鑑定家や、長年にわたり正宗の名跡を敬愛してきた愛刀家たちは、今村の論に対して次々と反論を寄せた。この結果、読売新聞紙上では今村側と反論側との間で、長期間にわたる論争が展開されることとなった。刀剣という専門性の高い分野をめぐって、一般紙の紙面上でこれほど大規模かつ長期の論争が繰り広げられたことは、当時としては前代未聞の事態であり、この論争は「正宗論争」として刀剣史上に記憶されることとなった。
正宗抹殺論が提唱された当初、今村長賀の論拠——すなわち確実な在銘正宗作の不在——は、一定の説得力を持つものとして受け止められた側面もあった。しかし、その後の研究の進展により、正真の在銘正宗作とされる刀剣が確認されるようになり、さらに桃山時代以前に遡る文献の中にも、正宗を名工として言及する記録が次々と発掘されるに至った。これらの新たな発見により、今村長賀が正宗抹殺論の根幹に据えていた論拠は、事実の面から覆されることとなった。今日の刀剣史研究においては、正宗は実在した相州伝の代表的な名工として広く認められており、正宗抹殺論そのものは、史実に基づかない一時的な学説として位置づけられている。
正宗抹殺論は、結果として否定された学説ではあるものの、この論争が日本の刀剣史研究に与えた影響は決して小さくない。今村長賀の大胆な問題提起は、それまで本阿弥家の権威に依拠しがちであった刀剣鑑定のあり方に対し、史料的な裏付けを重視する近代的な実証研究の必要性を強く印象づける契機となった。以後の刀剣研究においては、伝承や鑑定家の権威のみに頼るのではなく、在銘作の発見・文献との照合といった実証的な手法がより重視されるようになっていったと評価されている。正宗抹殺論は、明治期における刀剣鑑定の近代化を象徴する論争の一つとして、今日でも刀剣史を語る上でしばしば言及される事件となっている。