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元久2年6月22日(1205年)畠山重保・重忠父子討死、閏7月19日牧氏事件で北条時政失脚
由比ヶ浜(重保討死)・武蔵国二俣川、現・神奈川県横浜市旭区(重忠討死)
勢力
北条氏方(討伐軍)
畠山重忠・重保父子
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畠山重忠は長寛2年(1164年)、武蔵国男衾郡畠山郷(現・埼玉県深谷市)に生まれた。源平合戦では宇治川の戦いや一ノ谷の戦いで数々の武功を挙げ、奥州合戦にも従軍するなど、源頼朝の挙兵以来の忠実な御家人として重きをなした。武蔵国内では留守所総検校職という国内武士を統率する要職にあり、その清廉な人柄から後世「鎌倉武士の鑑」と称される人物であった。重忠の館は武蔵国比企郡菅谷(現・埼玉県嵐山町)にあり、この菅谷館跡は現在も国の史跡として保存されている。
源頼朝の死後、鎌倉幕府の実権を握った北条時政は、後妻・牧の方の娘婿である平賀朝雅を武蔵国司に任じ、武蔵国支配への影響力を強めようとしていた。これは代々武蔵国内で重きをなしてきた畠山氏にとって、自らの立場を脅かす動きとして受け止められ、両者の間には次第に緊張が高まっていった。
元久元年(1204年)11月4日、京の平賀朝雅邸では、将軍源実朝の御台所を迎えるため上洛していた御家人たちを労う酒宴が催された。この席上、朝雅と重忠の嫡子・畠山重保との間で激しい言い争いが起こる。翌5日には時政の子・北条政範が京で病死しており、時政周辺には不穏な空気が漂い始めていた。
元久2年(1205年)6月21日、朝雅は重保に「悪口」を受けたとして継母・牧の方に訴えた。娘婿からの訴えを受けた牧の方は、重忠父子に謀反の意ありと時政に報告する。この讒言を信じた時政は、畠山父子の討伐を決意するに至った。
6月22日の早朝、まず鎌倉の由比ヶ浜において、畠山重保が三浦義村らの軍勢に襲撃されて討ち取られた。同じ日の午後、鎌倉へ召し出された重忠は、事態を知らぬまま武蔵国二俣川(現・神奈川県横浜市旭区)にさしかかったところで、北条義時を大将とする数千騎の大軍勢と遭遇する。重忠が率いていたのはわずか134騎に過ぎず、多勢に無勢の中で重忠は矢を受けて討死し、享年42であった。子の重秀ら従者たちもこれに殉じて自害した。
戦いの翌日、6月23日、大将を務めた北条義時は父・時政に対して「重忠に謀反の事実はなかった」と告げ、事件は無実の有力御家人を陥れた冤罪であったことが明らかになる。さらに閏7月19日には、時政と牧の方が娘婿の平賀朝雅を将軍に擁立しようと画策していたことが発覚し、北条政子・義時によってこの企ては阻止された(牧氏事件)。時政は出家させられて伊豆国へ追放され、以後政治の表舞台から退いた。7月26日には朝雅も京で誅殺されている。この政変を経て、北条義時が2代執権として幕政の実権を握ることとなった。
畠山重忠の乱ののち、武蔵国における有力豪族の勢力は大きく削がれ、北条氏の武蔵支配は決定的なものとなった。重忠の居館であった菅谷館は、後に山内上杉氏や後北条氏の拠点としても用いられ、鎌倉時代から戦国時代に至る関東の城館史を物語る遺構として今日まで伝わっている。無実の罪により滅ぼされた重忠の悲劇は、忠義に厚い「鎌倉武士の鑑」として後世長く語り継がれることとなった。