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※画像はイメージです。東大寺正倉院(しょうそういん)に伝わる宝物は、天平勝宝8年(756年)、聖武天皇の七七忌(四十九日)にあたって光明皇后が大仏に献納した天皇遺愛の品々を母体とする。そのなかには、奈良時代の宮廷刀剣文化を今に伝える貴重な刀剣類が含まれている。
献納品の目録である「東大寺献物帳」、通称「国家珍宝帳(こくかちんぽうちょう)」には、献納された刀剣の品目や形状が記載されている。そこには唐大刀(からたち)13口、唐様大刀(からようのたち)6口といった記述が見え、当時の宮廷が大陸様式の刀剣を儀礼具として重んじていたことがうかがえる。
正倉院刀剣のなかでも著名なのが、金銀鈿荘唐大刀(きんぎんでんかざりのからたち)である。全長およそ99.9cmの儀仗用大刀で、把(つか)を鮫皮で包み、鞘には研出蒔絵(とぎだしまきえ)の技法で鳥獣や唐草文を描く。透彫の金具には水晶やガラス玉を嵌め込むなど、華麗な装飾が施されている。実戦用ではなく、儀式の場で帯びる威儀の刀剣として作られたと考えられている。
聖武天皇の遺品とされる「陽宝剣(ようほうけん)」「陰宝剣(いんほうけん)」は、いったん正倉院に献納された後に持ち出され、長く所在が分からなくなっていた。明治40〜41年(1907〜08年)、東大寺の盧舎那仏(大仏)須弥壇付近から、大刀6口を含む鎮壇具一式が出土した。これらは国宝「東大寺金堂鎮壇具」として指定されているが、2010年にX線調査が行われた際、そのうち2口の刀身に「陽劔」「陰劔」の金象嵌銘が確認された。これにより、正倉院から持ち出されて以来長く所在不明だった陽宝剣・陰宝剣と同一のものと判明し、古代刀剣の伝来をめぐる劇的な事例として知られる。
正倉院の宝物が奈良時代の姿をとどめて現代まで伝わった背景には、厳重な管理の伝統がある。正倉院の宝庫は天皇の許可なく開封できない「勅封(ちょくふう)」によって守られ、開封の機会そのものが厳しく制限されてきた。高床式の校倉造(あぜくらづくり)の宝庫と、宝物を納める唐櫃(からびつ)による保護が温湿度の急変を和らげたことも、有機質の素材を多く含む宝物の保存に寄与したと考えられている。刀剣のように金属と木・革・糸が組み合わさった工芸品が、土中からの出土品ではなく伝世品としてまとまって残る例は世界的にも極めて稀であり、「使われていた当時の姿」をそのまま伝える点に正倉院刀剣の最大の価値がある。
正倉院の刀剣群は、日本刀が反りを持つ以前の「上古刀(じょうことう)」の様式を示す。刀身は基本的に直刀で、断面の造込みには刃側を斜めに削いだ切刃造(きりはづくり)などが見られる。後の鎬造(しのぎづくり)の太刀とは異なる構造であり、大陸系の刀剣様式の影響がうかがえる。把や鞘の装飾に重きを置いた儀仗の大刀と、実用を意識した武器としての大刀の双方が献納されている点も、当時の刀剣が儀礼具と武器という二つの顔を持っていたことを物語っている。
刀剣史では、反りのない上古の直刀を「大刀」、平安期以降に成立する反りを持つものを「太刀」と書き分ける慣行がある(読みはいずれも「たち」)。国家珍宝帳に見える「唐大刀」「唐様大刀」という表記は前者にあたり、唐からの舶載品と、それに倣って作られた国産品とが区別して記録されていたと解されている。目録上の書き分けからは、奈良の宮廷が舶来の文物とその国産化を明確に意識していたことが読み取れ、後の日本刀が大陸様式を消化して独自の姿へ進んでいく前史として興味深い。
正倉院刀剣の鑑賞では、外装と刀身を分けて見る視点が役に立つ。外装では、鮫皮の把、蒔絵や象嵌の文様構成、金具の透彫の精度に注目する。刀身では、直刀ならではの端正な姿と、造込みの断面構造を想像しながら見る。後世の日本刀鑑賞が刃文や地鉄の働きを中心とするのに対し、上古刀は刀身と外装をあわせた総合工芸として味わうのが基本姿勢となる。
正倉院宝物は常設公開されておらず、例年秋に奈良国立博物館で開催される「正倉院展」で、年ごとに選ばれた宝物の一部が公開される。刀剣や刀装具が出陳される年もあり、天平工芸の細部を間近に観察できる貴重な機会となっている。展示を見る際は、鞘の蒔絵や金具の細工に加え、反りのない直刀のシルエットそのものを意識すると、後の太刀との違いが実感できるはずだ。
正倉院の宝刀群は、奈良時代の宮廷が大陸文化を吸収しながら、儀礼・装飾の面で刀剣を高度に洗練させていたことを示す。後の反りを持つ太刀が成立する以前、直刀を基調とした上古刀の世界の頂点を伝える存在といえる。
奈良・平安初期の刀剣文化に関心がある方は、TOUKENZAのコラムや刀剣一覧で、時代ごとの刀姿の変遷をあわせてご覧いただきたい。
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