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※画像はイメージです。応仁元年(1467年)に勃発した応仁の乱は、11年間にわたって京都を戦場とした未曾有の内乱である。この戦乱が日本の軍事史に与えた最大の変化のひとつが、「足軽(あしがる)」の台頭だ。
平安・鎌倉・室町前期の合戦は、武士(もののふ)を主力とする騎馬戦が中心であった。弓騎馬の武士が主導権を握り、徒歩の兵は補助的な役割に留まることが多かった。しかし応仁の乱における長期化・都市型の市街戦は、機動力に優れた足軽の有効性を示すことになった。足軽は軽装で動き回り、放火・略奪・小規模な奇襲戦を担う存在として存在感を増していった。
この変化は刀剣の需要構造を根本から変えた。それまでの武士向け刀剣は、一人の刀工が丁寧に時間をかけて打つ「注文打ち(ちゅうもんうち)」が主流であった。しかし足軽に刀を持たせるためには、大量・低コスト・短期間での製作が不可欠となる。これが「数打ち刀(かずうちとう)」大量生産体制の本格的な幕開けだったと考えられている(数打ち刀とはも参照)。
足軽の武装については、軍記物語・絵巻・発掘資料などから断片的に復元されている。典型的な足軽の装備は概ね以下の通りだ。
数打ち刀の主要な生産拠点として重要だったのが備前(岡山県瀬戸内地域)と美濃(岐阜県関・美濃地域)だ。
備前の数打ち体制: 長船(おさふね)を中心とする備前の刀工群は、応仁の乱以前から刀剣生産量が多いことで知られていた。応仁の乱以降は、少人数の職人が精品を作る体制から、複数の職人が分業で数を生産する体制への移行が進んだとされる(応仁・文明の乱と刀剣産業で詳述)。
備前の数打ち刀は「備前物(びぜんもの)」として知られ、品質にばらつきはあったものの、基本的な切れ味と耐久性は確保されていたと考えられている。大量供給が可能であったため、戦国大名が足軽部隊に武具一式を調達する際の主要な供給地のひとつとなった。
美濃の数打ち体制: 美濃国(現・岐阜県関市周辺)の刀工は、関鍛冶(せきかじ)として知られる。美濃伝の刀工は切れ味に優れ、刃文(特に三本杉刃文)の特色ある作風で知られたが、数打ち体制のもとでも高い生産量を維持したとされる(三本杉刃文の代表として兼元(孫六兼元)がある)。美濃刀は東国の武将にも流通したことが伝えられている。
足軽が刀を手に入れる経路は複数あったとされる。
足軽の台頭と数打ち刀の普及は、日本刀業界の構造を大きく変えることになった。
足軽という存在は、刀剣を「少数の武士エリートのもの」から「戦争に参加する多くの人間が必要とするもの」へと変えていった。この変化は、日本刀産業の大量生産化を促した一方で、精品・名作を生む伝統的な刀工文化を「特別なもの」として際立たせる、いくぶん逆説的な効果ももたらしたといえる。現存する数打ち刀・注文打ちの実例は、TOUKENZAのオンラインカタログでも折々に紹介している。関心のある方は商品一覧をのぞいてみてほしい。
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