※画像はイメージです。義姫
Yoshihime
伊達政宗の生母、最上義光の妹——毒殺未遂伝承の真偽が今も語られる戦国の女性
解説
義姫(よしひめ、天文17年〈1548年〉-元和9年〈1623年〉)は、出羽国の戦国大名・最上義守の娘として山形城に生まれた。最上義光の2歳年下の妹にあたる。永禄7年(1564年)、米沢城主・伊達輝宗に嫁ぎ、永禄10年(1567年)に嫡男・梵天丸(後の伊達政宗)を、翌年には次男・小次郎を産んだ。
伊達家と最上家の間で軍事的緊張が生じるたびに、義姫は自ら陣中に赴いて双方の間を取り持つ役割を果たしたと伝わる。天正13年(1585年)の人取橋の戦い前後をはじめ、伊達・最上両家が対立する局面で仲介に動いたとされ、実家と嫁ぎ先の板挟みという困難な立場にありながら、政治的な調停者として重要な役割を果たした。
義姫の名を最も広く知らしめているのは、天正18年(1590年)4月に起きたとされる政宗毒殺未遂事件である。『貞山公治家記録』などの伝承によれば、義姫は次男・小次郎を伊達家当主に立てようと図り、政宗の食事に毒を盛ったが、政宗は腹痛・嘔吐で一命をとりとめ、逆に小次郎を手討ちにしたうえで義姫を実家の最上家へ追放したとされる。
しかし近年の研究では、この事件の史実性に強い疑問が呈されている。虎哉宗乙禅師の書状などから、義姫が実際に山形へ出奔したのは事件があったとされる年から4年後の文禄3年(1594年)頃であったことがうかがえ、時系列が伝承と一致しない。さらに、事件後とされる時期にも政宗と義姫の間には情愛のこもった書状のやり取りが続いており、天正から文禄にかけて母子が和歌や金子を贈り合い、政宗が「今一度母上を拝み申したく」と繰り返し記した手紙も残る。こうした矛盾から、毒殺未遂は分裂した伊達家中を結束させるための自作自演、あるいは小田原参陣の遅れを豊臣秀吉に弁明するための方便であった可能性が近年指摘されている。真偽は今も定まっていない。
晩年は仙台で過ごし、元和9年(1623年)7月16日、76歳で没した。法名は保春院。息子・政宗の権力確立を陰で支えた戦国大名家の女性として、その評価は毒殺伝承の是非とあわせて今なお議論の対象であり続けている。